米山城は、現在の東広島市志和町に所在し、かつてこの地域の国人領主であった天野氏の前期の居城跡である。天野氏は藤原氏の流れで、関東御家人で鎮西探題だった天野遠影の子孫である。
1525年尼子方についた天野興定を大内義興が攻撃した時、毛利元就も大内方で参戦し、元就の仲介で領土安堵で講和する。1543年には元就は天野興定と誓書を交わしている。以後毛利元就とし行動をともにしている毛利氏譜代家臣の一人となる。
天野興定の嫡子隆綱は、毛利隆元と大内氏の下で共に人質時代を送ったことから、兄弟の契りを交わし、ともに行動した。隆綱の弟がその跡を継いだが、元貞に嗣子がなかったため、元就の晩年の子、七男の元政を天野家の養子にして、1570年に元政が天野家の家督を受け継ぐ。元政の家系は長州藩では、天野毛利氏として毛利五家体制の一翼を担った。
現在城跡は、写真のようにただの丘と化していて、ほとんど城跡らしき遺構は確認できない。
米山城が大内方に落とされた1525年以降は、近くに本格的な山城の生城山城を築き、長州へ移るまで使用した。 |