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草津城跡   広島市



 草津城は、もともとは厳島神社領配下にあったこの地方の豪族羽二氏の城であったが、その後戦国時代後期には、大内氏の支配下にあり、長く大内氏の安芸西部の拠点として機能していたようである。 大内義隆を倒し、大内氏の遺領を受け継いだ陶晴賢と決別した毛利元就は、安芸における大内氏の勢力を駆逐すべく、1554年この城を落とした。

 以来、毛利氏の瀬戸内を支配する重要な拠点として関が原の戦いまで機能した。 毛利元就がこの城を落とすと、元就は自分の側近だった児玉就方を城主として在番させた。

 児玉就方は、毛利元就が育成した毛利直属の水軍部隊で川内衆と呼ばれていた水軍の指揮官に任命されていた元就側習のもっと重要な人物である。その児玉氏をこの城に詰めさせたのは、この城の持つ瀬戸内海への拠点として当時重要な位置にあったことから、瀬戸内への布石として位置づけていたと思われる。1555年の厳島合戦への布石がすでに打たれていたと考えていい。 児玉氏は、関が原で長州へ移るまで、3代に渡りこの城の城主として在番していた。 毛利水軍の総将・児玉就方の墓は、現在城跡の一角にある。城跡は、現在、写真のように中ほどを鉄道の線路によって切り崩され、当時の遺構は何もない。 戦国時代はこの城の麓まで海岸線であったようである。
 写真は、児玉氏の菩提寺であった海蔵寺からの眺めである。  
 
 
 




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