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丸子山城跡  広島県倉橋島




 丸子山城は、安芸地方の瀬戸内を支配下にしていた海の豪族多賀谷氏の居城跡である。 広島県倉橋町に所在する。現在は、写真のように手入れも放置され荒れ果てているが、海賊衆の居城跡としては、本格的な山城の構造を取り入れ、石垣、堀跡などがきれいに残っている。資料館の係りの人に聞いたところでは、町の教育委員会の人材も老齢化したりして、ほとんど手入れする人もなくなっているのが、現状のようである。立派な史跡なのに、寂しい限りである。知らない人には、ただの丘にしか見えないはずだ。

 倉橋は、もともとは倉橋荘と呼ばれ、藤原氏の嫡流だけが受け継ぐ所領であったという。この地は、海上交通の要衝として古来より船の出入りが多く、大陸と行き来する船が寄航している。そのため造船の技術を持つ人々が多くいたと見えて、遣唐使船の建造が発注されているところである。現在当時の遣唐使船を実物大に復元したものが、町の造船技術資料館に展示してある。写真は下に掲載しておきます。

 多賀谷氏は、もともとは伊予の国、現在の愛媛県東予市あたりに基盤をもっていた豪族である。その出自は、現在の埼玉県の多ヶ谷に所領をもつ関東御家人であった。その多賀谷氏の庶家が、伊予北条にも所領をもっており、それが瀬戸内海多賀谷氏の直接のルーツとなる。 関東から伊予国に移住してきた多賀谷氏は、次第に海の豪族へと変貌していったようである。それまで伊予を本拠にしていたが、室町時代になると海上統制の緩んだ瀬戸内海に積極的に進出していったようで、この頃伊予国から安芸に本拠を移したと見られる。 伊予国から安芸の瀬戸内海に拠点を移すきっかけとなったのは、九州から東上していく足利尊氏に味方したからだと言われる。

 多賀谷氏の安芸での当初の拠点は、この倉橋ではなく、これより東部の蒲刈島である。 蒲刈島に拠点をおいていた多賀谷氏は、伊予の豪族河野氏の配下に属していたが、後にはこの地域に勢力を拡大してきた大内氏の勢力下に入る。 この頃に多賀谷氏は、蒲刈島を本拠とする蒲刈多賀谷氏と倉橋島を本拠とする倉橋多賀谷氏とに別れる。

 1420年朝鮮から日本に使節として派遣された宋希mが著した日誌『老松堂日本行録』の中で、蒲刈島に寄航していて、この地域は海賊が跋扈していて、日本の王権も及ばない地域で不安であるが、日も暮れているので停泊せざるを得ない。また部下が朝鮮からの船には銭がないが、この後通り過ぎる琉球の船には多くの財宝があるから奪おうなどど話しているのを聞いたことなどを記していて、この地のボスと思われる人物が挨拶に来たと伝えている。 またこの蒲刈島を境にして、東西の海賊がいて、これより西に行く船には東の海賊を、これより東に向かう船には西の海賊をそれぞれ1名乗船させていけば、決して船を襲撃することはない慣行があり、蒲刈島で銭7貫で雇い入れて乗船させたことなども記されている。

 多賀谷氏は、現在の広島県近海の瀬戸内海を縄張りに、往来する船から警固料を徴収して経済的基盤としていたようである。 戦国末期になると、瀬戸内の海上勢力図も刻々と変貌していく。蒲刈島の東部に次第に能島村上氏の勢力が近づき、広島湾頭には、矢野城の野間氏、さらに奥深く拠点を構える仁保城の白井氏、音戸の瀬戸近くにまで勢力を拡大してきた小早川氏などが、多賀谷氏を包囲する形成となる。 蒲刈多賀谷氏が小早川氏の軍門に下り、毛利氏配下になったのに対して、倉橋多賀谷氏の方は、最後まで大内氏に踏みとどまったため、陶晴賢に反旗を翻した毛利元就によって、1555年厳島合戦の行われる直前、攻撃され落城する。







 




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