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丸谷(屋)城跡   広島県蒲刈島



丸谷城は、中世瀬戸内海に活躍した海の豪族蒲刈多賀谷氏の居城後である。写真の赤い丸に囲んである小高い丘陵部が遺構である。
 現在、手入れもしてなく荒れ果てているが、石垣、郭跡などがはっきりと確認できる。
 多賀谷氏の詳細については、このシリーズの『丸子山城』を参照してください。

 同じ一族でも、蒲刈の多賀谷氏の方は、より海賊の性格が強く、毛利氏、特に小早川氏に従い、江戸時代毛利氏の家臣として生き延びていくが、倉橋の多賀谷氏は、毛利氏に従わず、厳島合戦直前に毛利氏によって滅ぼされている。
 下蒲刈のこの浦に、1420年に朝鮮からの使節団一行が立ち寄ったことは、宋希mが著した日誌『老松堂日本行録』の中にその時の様子が記されていて、当時の蒲刈の人々の暮らしが分かる。
 それによれば、蒲刈の人々が朝鮮の船に集まってきては、船を見たいというので、船に乗船させて、じっくりと見学させたということ。また、この島のボスと思われる人物(多分多賀谷氏のことか)が挨拶に来て、これも船の中をじっくり見学させてもらったことにいたく感激していたとのことで、帰り際に家に喫茶に来ないかと誘われたともある。しかし宋希mは、同乗していた博多の商人の忠告で、いかない方がよいと言われたので、ボスの家には行かなかったともある。
 この情景から推測するに、蒲刈の人々にとっては、朝鮮使との親近感のある交流が感じられ、緊張した雰囲気はない。当時のこの瀬戸内海の人々にとっとは、琉球船、朝鮮船、また中国船と外国の人々の往来は日常のことでもあったのであろう。
 現在から感覚から見て、不思議な所は、通訳らしきものが介在してないようなのである。
 これは蒲刈の人々の中に朝鮮語を解する人がいたと言うことを意味しているように思え、古代伊予の豪族河野氏が朝鮮から帰ってきた子孫と偶然にも瀬戸内海でめぐり合い、話をする伝承があるが、それなども考え合わせても、その場面には通訳らしき人物が登場せず、直接話をしているようなのである。
 遠く、琉球、中国、朝鮮あたりまで航海していた瀬戸内の海の民のなかには、現在で言うバイリンガルまたはトリリンガルが少ながらずいたであろうと思われるのである。
 中世まで、瀬戸内海はインターナショナルな生活空間だったのである。







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