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宮の尾城跡   広島県宮島




宮の尾城跡は、別名要害山城とも呼ばれており、毛利元就が1555年陶晴賢を破った厳島合戦に際して、元就が陶晴賢を厳島に誘いこむために急遽囮城として築城した砦とされている。
 しかし、実際にはこの場所には、元就が築城させる以前から、砦のようなものが存在していたようである。
 その砦に元就が手を加えさせ、陶晴賢に対するデモンストレーションとして、クローズアップしたと思われる。
 陶晴賢の軍は、1555年9月21日、約500艘で約三万も
の兵を厳島に渡海させた。 上陸すると、宮の尾城に対峙する塔の丘に陣を敷いて、激しく宮の尾城を攻撃した。
 しかしなかなか容易には落ちず、そうこうしているうちに、毛利元就は囮城が落とされてからでは、作戦計画は意味がないということで、9月晦日夜半に約4000の兵を率いて背水の陣で厳島に渡海した。
 この両軍の衝突が合戦史上有名な『厳島合戦』となるわけである。
 厳島合戦については、織田信長の桶狭間の奇襲と並んで戦国時代の合戦史上有名になっているが、一概に奇襲戦ではなかったとの説も多くとなえられており、まだまだ疑問の余地を残している出来事といえる。


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