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島津義弘加治木館跡    鹿児島県姶良市





 写真は島津義弘が晩年を過ごした館跡です。現在は、かつての敷地の一部が加治木高校 蛇城小学校となっています。加治木は島津氏の支流が加治木島津氏として明治維新を迎えるまで大きな外城の城下町として栄えていきます。
 島津義弘は 生涯を島津家安泰のため一筋に生きた武将です。関ヶ原の退き口で敵陣の中を中央突破したことで、後世に不滅の名前を残すことになるわけですが、その生涯はひとえに兄の義久を支えながら、過酷な豊臣政権の時代を生き残ることに費やされたと言っていいでしょう。決して華々しい戦功にイメージされるような派手な武将ではなかったのです。どこまでも兄義久を立て、決して兄を差し置くようなことはしませんでした。この加治木の館跡は、そういう謙虚な義弘の最後の安住地だったのです。
 
 島津義弘の館は秀吉政権に組み込まれた後年には、頻繁に移動します。長い間 日向の伊東氏に対する前線基地として、現在のえびの市に(当時は真幸院と呼ばれていた領地)あった飯野城に本拠を構えていましたが、豊臣政権に組み込まれると、島津氏の領地替えが盛んに行われ、兄の義久を大隅に 弟の義弘に薩摩を与え、事実上秀吉施政権の下では義弘を島津氏の当主扱いにするようになります。そこで、義久は島津氏宗家の本拠地の鹿児島を離れなければならなくなり、錦江湾の奥地にある富熊城に引きこもります。しかし、義弘は兄義久の手前、いきなり鹿児島に入ることはせず、飯野城を引き払い、北薩の栗野城にまずは入ります。それからしばらくして錦江湾沿岸の重富の平松城に館を構え、それからすぐ近くの帖佐の館へ入ります。加治木の館へ入るのは、関ヶ原から帰還した後になります。加治木の館は、徳川政権に対する蟄居の意味合いも含まれていたわけです。結局 義弘は鹿児島に入ることは生涯せず、代わりに義久の娘亀寿を正室に迎えていた三男の家久が島津家の当主となる路線が出来ていたことで、家久を鹿児島に迎えます。兄義久に遠慮し、我が子家久にも気配りする武将だったのです。
 
 加治木の館に隠居してからも、歴戦の武将らしく恒例の軍事教練では若い武士たちも追随できないほど巧みに馬を操り、城下の若者がぶらぶらしている姿を見つけては、本を読み精進するよう諭したりする姿があつたと伝えられています。晩年 体の自由がきかなくなり、食事もままならなくなったときですら、傍らの者が『殿、出陣でございます』と大きな声で叫ぶと、はっと我に帰ったかのように 姿勢を正して食事をする義弘の老いた姿があったとか。生涯を戦場に生きた歴戦の勇士の身に染みた習い性だったと言えます。
 1619年85歳でこの加治木で波乱の生涯を終えます。






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