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蒲生城跡  鹿児島県蒲生町


写真は、蒲生氏の居城蒲生城跡の遠景です。
蒲生氏は、12世紀初頭薩摩の垂水に入り居城を構えていたのですが、垂水から薩摩半島の蒲生に本拠地を変えます。
蒲生氏は、もともとは宇佐八幡宮関係の一族考えられています。薩摩の大隅は、古代から宇佐八幡宮と結びつきの強い地域でしたので、この宇佐八幡宮の神官一族の蒲生氏がこの地に派遣されてきたと考えられます。

城跡は、中世の山城としては大規模なもので、しかもその遺構もよく残されていて、薩摩を代表する山城の一つです。
 蒲生城が島津氏に落ちるのは1557年のことです。
 島津氏は、島津貴久の代には、南薩摩を統一し、次第に薩摩から大隅へと勢力を広げてきます。島津氏の一連の大隅合戦は、帖佐の岩剣城合戦に始まり、帖佐城、松阪城、そしてこの蒲生城へと続いていきます。
 この地域には蒲生氏と渋谷一族が古くから居て、なかなか島津氏に従わず、独立した動きをしていました。薩摩から大隅半島へと統一事業に乗り出す島津氏にとってみれば、大隅半島への途上にある蒲生氏とその味方をしている渋谷氏を降ろすことが最大の課題となります。
 島津氏はいち早く鉄砲を合戦に導入します。またこの時期の島津氏は島津忠良をはじめ、貴久、ひの息子たちの義久、義弘、貴久の弟の島津氏忠将、尚久と優れた武将たちがそろっていた、島津氏の最も充実した時で、とても蒲生氏などの敵ではなかったのです。

写真は蒲生城跡から眺めたかも牛の町並みです。蒲生は江戸時代、薩摩藩の外城の一つで、現在でも外城の町並みがよく残されている地域です。

関連情報
サムライたちの墓―蒲生氏の墓
薩摩紀行―外城城下町の街並み―蒲生

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