SamuraiWorld>古城紀行



栗野城跡   鹿児島県湧水町


 松尾城またの名を栗野城とも言いますが、この城は、島津義弘が、現在の宮崎県えびの市の飯野城から栗野に本拠を移した際に、それまでの簡素な山城に本格的に手を入れて築城したものです。それまではこの栗野城は北原氏の本拠地でした。
 北原氏は、大隅地方の大豪族肝付氏の一族で、肝付兼貞の三男俊貞の流れに当たります。始めは肝付郡の串良の北原城を本拠としていたところから、北原氏と名乗るようになります。その後現在の宮崎県えびの地方の真幸院を領して、栗野城を本拠としま、1564年に島津氏に下り、伊集院神殿村に移住させられるまでこの地方の豪族として、島津氏、相良氏、伊東氏の草刈場の真っ只中で、生き延びて生きます。
 真幸院とは、現在の宮崎県えびの市、小林市地方を中心にした霧島山麓の広大な平地が広がる地域で、日向、薩摩、肥後の境界に当たる場所で、激しい争奪が度々繰り返されていたところでもありました。
 薩摩半島を統一しつつあった島津氏は、ついに北原氏を攻め滅ぼし、横川城にあった北原兼親が1564年 島津氏に降り、横川、栗野、吉松地方を島津氏に献じたことにより、貴久は次男の義弘を栗野城にいれ、北方への押さえとします。
 この義弘の移動によって、この城が戦国末期の山城として再修築されたようです。
 現在では、義弘が積ませた石垣が残り、本丸跡には館跡と思われるものの基礎石が残されていて、本丸のことを《男丸》、二の丸のことを《女丸》と俗称されていたことから、本丸には義弘の舘が、二の丸には義弘夫人であった広瀬氏の舘があつたと推測されています。義弘はここに5年ほどいて 帖佐へ移動していきます。




関連ページ
薩摩紀行―肝付氏系図
古城紀行―鹿児島―横川城



inserted by FC2 system