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日和城(高城)  宮崎県都城市


日和城または高城とも呼ばれ、日向三高城のひとつとして数えられていました。現在の宮崎県高城町にあります。
 
 この城がにわかに歴史に登場してくるのは、南北朝時代になります。
 九州の武家方の押さえとして、足利尊氏は畠山義顕を派遣してきます。その畠山義顕が日向国の足場として拠った城が高岡町にあった穆佐城です。高城とは10キロ程度しか離れていません。
 
 そのころ日向へ進出し、勢力を大隈から北方の宮崎平野へと伸ばそうとしていたのが、大隈の大豪族肝属氏です。当時薩摩の島津氏はいまだ薩摩半島の統一に至らない頃で、その間隙をぬって肝属兼重が、南九州では唯一の南朝方の武家として、肥後の菊池武光と呼応して日向へと進出してきます。
  穆佐城に入った畠山義顕は薩摩の島津貞久と提携し、南九州の南朝方武家、その中心的人物であった肝属兼重の挟撃作戦に出ます。しかし肝属兼重もそう簡単には落ちません。
 1336年、ついに両者最後の激突がここ日和城で行われます。しかし最初の戦いでは、肝属兼重が畠山氏を撃退し、畠山氏はいったん穆佐城に退避し、周囲の豪族を味方につけながら肝属兼重を追い落とす準備を整えます。
 こういう膠着した状況の中で、1339年肝属兼重の方から攻撃を仕掛け、ここに最後の決戦が行われます。畠山義顕は配下の日向の土豪土持宣栄らの大軍を日和城に差し向け、ついに肝属兼重拠る日和城は落城します。肝属兼重はこのとき、城と共に自刃するつもりであったものを、後日を期して再興するべしと諌められ、城の間道から農民の姿に身を変えて落ちていったと言います。
 肝属兼重の日向敗走によって、南朝方の南九州での勢力は確実に衰退が始まっていきます。







 


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