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飯野城跡  宮崎県えびの市



 飯野城は、宮崎県えびの市飯野に所在します。この地は昔は日向真幸院と呼ばれたところで、代々肝付氏一族の北原氏が治めていたところでした。しかし、地理的に日向、薩摩、球磨の三国に接するところで、北原氏は球磨の相良氏、日向の伊東氏、さらには南の島津氏との拮抗するバッファゾーンに位置していました。

 戦国末期になり、薩摩の島津氏が大隈、薩摩を制すると、日向の大名伊東氏との衝突になります。
 島津貴久は、次男の義弘を大隈の岩剣から日向の飫肥へ、その飫肥が伊東氏にとられると、義弘をこの日向と薩摩との国境にある真幸院に置きます。1564年のことです。義弘は、加久藤城の支城であった飯野城を改修して飯野城に入り、加久藤城には夫人の広瀬氏を配置します。
義弘は1590年、栗野の松尾城に移動するまで、実に27年間もの長きに渡って、この飯野城に在番し、この地から九州各地に出陣していったことになります。

 義弘飯野城時代の最も重要な合戦と言えば、1572年の木崎原合戦でしょう。この戦いに勝利して、島津氏は薩摩大隈からさらに北方へと進出する突破口が見えてきます。
木崎原合戦の時には、伊東氏の軍をかく乱して、まんまと川内川の沿いの木崎原へ誘い出して勝利します。この飯野城と夫人の居た加久藤城との間には間道があり、山伝いに連絡網が整備してあったようです。城の見張り櫓からは、遠く霧島連山まで見通し、援軍を送った白鳥山の白鳥神社は手に取るような位置にあることがわかります。

木崎原合戦は、よく《九州の桶狭間》と称され、島津義弘の奇襲戦が功を奏して、十倍以上の兵力の伊東氏を破ったように古来考えられてきましたが、この戦い島津氏だけによる勝利ではなく、この地域一帯に根付いていた山伏などの宗教勢力との連係プレーによる合戦だと見ていますが、この飯野城の見張り櫓にたって川内川と霧島連峰を展望するとますますその実感がわいてきます。








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