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高城   宮崎県木城町



高城という名の城跡は全国にかなりありますが、日向の国で、高城と言えば、島津氏の日向の橋頭堡だった城です。島津氏にとってはこの城が、死守すべき境界線上のとりでだったようです。したがって、島津氏の歴史の中で、この城は、島津氏の命運をわけた激戦の城として名を残すことになります。
 1577年12月、日向の大名伊東義祐は、島津義久に攻められ、城を捨てて豊後の大友宗麟を頼って豊後に落ちます。
大友宗麟は、親戚に当たる伊東氏を日向に復すべく、翌年島津攻めを行います。
島津義久は、大友宗麟の攻撃に備えて、山田有信を高城の城主に入れます。
 1578年の11月、大友宗麟は、五万という大軍を投入して日向の高城を包囲します。 対する島津氏は四万の大軍を率いて小丸川を挟んで対峙します。高城には山田有信の五百の兵がろう城。
 この戦い、そもそも大友軍には、出陣する前から遠征気分が漂い、士気の低下と、指揮の不統一により、 無残にも島津軍に敗れててしまいます。しかも大友軍は島津軍に、そのあとも現在の日向の美々津の耳川あたりまで追撃され、何千もの戦死者を出し、大友宗麟もやっとの思いで、延岡へ逃げ帰ります。 これが世に言う《耳川の合戦》です。この合戦よって、一時は九州北部を制圧していた大友氏は衰退へと転げ落ちていきます。



次に高城が歴史に登場してくるのは、豊臣秀吉による島津氏征伐のときです。
 秀吉は島津征伐軍を二手に分けます。秀吉率いる本隊は、筑紫から肥後へのルートで薩摩を攻撃します。
秀吉の弟の秀長率いる20万とも言われる大軍は、豊後から日向へと侵攻します。
島津氏は、度重なる降伏勧告を拒絶し、最後の決戦場をこの高城におきました。
 このとき秀長の将宮部継潤は、高城から数キロ先にある高台の根白坂に陣を張り、約3万の兵で島津氏の攻撃に備えます。
深さ約3メートル、幅5メートルほどの空掘を掘り、柵を作り、背後には鉄砲隊を備えます。この戦法、まさに《長篠の戦》の野戦と同じ形態です。
島津義久は二万の精鋭部隊を薩摩から引き連れ、この陣を突破すべく夜襲をかけ、打たれても打たれても柵目指して突撃する肉弾戦を展開します。
島津軍独特の戦術で、このあたり武田軍の戦い方に似ているようです。そのあたりの情報を事前に知っていたので、このような野戦の陣形を用意していたのだろうと推測されます。
 累々と重なる屍の前に、ついに豊臣軍の柵は突破できず、島津軍は撤退します。このとき初めて、島津義久は、秀吉に降伏するしかないことを悟ったようです。
 高城の山田有信は、そのときでもまだ頑固にろう城していましたが、主の義久の命によって始めて彼もまた降伏し開城します。山田有信はそのとき人質として嫡男の有栄を出します。
有栄は、後に関が原では義弘の軍に加わり、窮地を脱して生き延びた少ない関が原生き残り組みで、後に出水の地頭に補され、出水郷の象徴的な武将として人々の記憶に刻まれていきます。






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