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備中高松城跡   岡山県総社市



備中高松城跡は、城といっても山城ではないので、初めて訪ねた人には、どのあたりが城跡なのか見当がつきにくい史跡です。つまり、特徴的な空堀や高い土塁跡のようなシンボリックな遺構がないからです。それもそのばす、この城こそ、歴史に永遠に名を残すことになった沼城の代表だからです。
 城のまわりは、あたり一面湿地帯で、その湿地帯こそ、最大の防壁であったわけです。しかし、この城の特性によってこそ、この城が永遠に歴史に名を刻み込むことになろうとは、なんとも皮肉な話です。

 
 


当時、この城は清水宗治と言う武将が治めていますが、彼自身の出自は、この地の祭祀系一族のようです。この家柄が彼の行動に少なからず影響を与えていることは否定できないと思います。
 中国地方を舞台にした織田氏と毛利氏との衝突は、1578年の上月城攻防戦、1581年の鳥取城攻防戦と、本格的な衝突に突入していて、この備中高松城攻防戦は、織田氏と毛利氏との第三戦というところでしょう。
 1578年の上月城攻防戦の際には、毛利氏が歴代最大の兵力を投入して、上月城に篭る尼子氏残党の息の根を止めることに成功しましたが、続く1581年の鳥取城攻防戦のころになりますと、勢いは織田氏、具体的には中国地方担当者であった秀吉の方に流れていきます。この頃になりますと、毛利氏の対応は全てにわたって後手に回り始めます。完全に秀吉に先手を取られ、揺さぶりを掛けられていきます。

 
 


鳥取城を落として勢いをつけた秀吉は、いよいよ山陽側で、毛利氏最前線を突いてきます。その山陽側の最前線のターゲットが清水宗治守る備中高松城だったわけです。
 秀吉は、この城を攻撃する前にすでに毛利氏内部の切り崩しに着手します。具体的には、村上水軍の一族来島村上氏が秀吉側に寝返り、その後の能島村上氏と来島村上氏の歴史的分岐点になります。また、金500枚とか領土を与えるとかの誘い水で、小早川水軍の総帥乃美(浦)宗勝兄弟の離反工作をしたりしていますが、こちらの方は宗勝が浮き足立った弟を殺して毛利氏からの離反を防ぎます。
 実は、この毛利氏水軍の切り崩しこそ、備中高松城攻防戦とその後の秀吉の『中国大返し』に深く関わっています。
 というのは、毛利氏が広大な領地を曲がりなりにも支配できていたのは、瀬戸内海、山陰日本海の制海権を抑えていたからに他ならず、軍の移動、物資の移動と、水軍力なしには、広大な領地の支配権を維持することは不可能だったからです。
 秀吉が最初に目をつけたのも、毛利氏の強さの核心部分であった毛利水軍だったわけです。
 小早川隆景は、こうした秀吉による揺さぶりを警戒して、清水宗治以下備中の諸将を備後三原に集めて、隆景らしいやり方で忠誠心引き締めを行います。当然人質を捕ります。
 清水宗治が秀吉からの誘いかけを拒絶し、断固毛利氏のために命を捧げた背景には、単純な宗治の律儀さだけで説明できるものではないでしょう。
 伏線として、上月城攻防戦の最中、出陣していた宗治はその子景治が秀吉方に誘拐された時、隆景は心配であろうから一刻も早く帰国して息子を取り返すように配慮したことがあります。このような、小早川隆景の政治力こそ、宗治の毛利氏への忠誠心を支えていたと考えていいのではないでしょうか。宗治の息子景治の『景』は明らかに隆景から拝命したものであることはわかりますし、その後景治は毛利氏の重臣として仕えていき、明治維新には清水家は男爵に叙せられます。

 この城の攻防戦が、日本史の中で特に有名になったのは、他ならぬ、秀吉による『中国大返し』が行われ、秀吉の天下取りへのターニングポイントであったからです。
 その際常に語られてきたことは、なぜ毛利氏は秀吉を追撃しなかったのか、追撃していれば天下はまったく違ったものになっていたであろうと言う推測です。
 しかしこれはありえなかったと思います。できない状況だったからこそ、追撃しなかった、講和に持ち込んだということでしょう。これが真実でしょう。
 というのも、毛利氏の内部が秀吉によって初めから揺さぶりをかけられていて、内部離反がいつ起こるかわからない不安定な状態だったこと、追撃できるだけの機動力、水軍力が十分でなかったこと、また、秀吉という武将への正確な評価など、さまざまな当時の状況分析の下に、小早川隆景が下した判断だったろうと思います。
 私は、この攻防戦は、清水宗治という非凡な武将と小早川隆景という非凡な政治家による、歴史的な演出であったような気がするのです。




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