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松山城跡   島根県江津市



松山城は、鎌倉末期に近江国よりこの地にやってきた地頭川上氏によって築城されたと伝えられている。
 その後時代と共に城主が代わる。
 南北朝の動乱期には、足利直冬を中心とする南朝方(宮方)の拠点として、足利幕府の標的とされることもあった。足利直冬は、この松山城から数キロ北方に所在する高畑城というところに入り、足利幕府に降伏し、許され、近くの慈恩寺で生涯を終えたと言われている。

  時代は戦国時代に入り、最後の城主は、福屋氏となる。
 福屋氏は、石見の大豪族益田氏の一族で、当時の本拠は本明城にあった。
 毛利氏が隣の領主小笠原氏の温湯城を攻め落とすと、小笠原氏と敵対関係にあった福屋氏の領地の一部を切り取って小笠原氏に与える。このことにかねてより不満を抱いていた福屋隆兼は、1561年7月、毛利氏が大友氏との戦いで九州へ張りついている隙を狙って、毛利氏に反旗をひるがえす。
 しかし毛利氏は大友氏が門司から軍勢を引き上げたことで、戦局は一段落したことで、翌1562年松山城を攻撃するために大軍を向けてきた。  毛利氏は、まず福屋一族のろう城するこの松山城を包囲する。
 福屋氏は頑強に抗戦したが、ついに毛利軍の前に落城する。討ち取られた首は、1000余にも及んだという。それほどすさまじい戦であったことを物語っている。
 現在でも、中腹にその時の首を葬ったと思われる首塚が現存している。
  福屋隆兼は、落城後、本拠の本明城に立て篭もるが、毛利の大軍を前にして戦意を失い、ひそかに城外に脱出し、出雲の尼子氏を頼るも、拒絶されたことで、大和の松永久秀を頼ったと伝えられている。その後の消息では、蜂須賀氏の客分として召抱えられていたとも伝えられている。

 
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