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長安(矢掛)城跡   島根県浜田市(旧弥栄村)



永安城城は、三隅氏の一族から分かれた永安氏の居城跡である。
 三隅氏は益田氏から分かれた一族で、その三隅氏から分かれた一族が永安氏となる。
 益田氏、三隅氏、周布氏、福屋氏、永安氏は、すべて益田氏の一族であり、この一族の勢力範囲は、現在の島根県の益田市から三隅町、浜田市、江津市、旭町、桜江町、金城町、弥栄村、石見町、温泉津町と3市6町村におよび、 日本でも有数の大豪族と言われる由縁である。
 益田氏とその一族の関係図はこちらです
  永安氏は、三隅氏初代兼信の次男兼祐が、永安郷の地頭となったことに始まる。
 永安氏が毛利氏との関係で注目されるのは、初代兼祐の孫娘にあたる夜叉が、安芸吉川氏初代経高の弟で、現在の大朝町鳴滝の地頭であった経茂と婚姻していたことで、石見吉川氏を誕生させる機会を与えたことである。
 このあたりの経緯については、歴史再発見シリーズの『女も地頭だった、領主だった』で説明してあるので、そちらを参照されたし。
  1554年、それまで陶氏に帰順を示していた毛利元就は、反陶氏の態度を明らかにすると、それまで陶氏についていた益田藤兼を中心とする益田氏一族の三隅氏、永安氏と周布氏を攻撃し始める。
 1555年3月には吉川元春を将とし、永安氏の居城永安城を攻撃した。城主永安兼政は、総領家の益田藤兼を頼って益田七尾城に逃げる。
 しかし益田藤兼は、毛利元就から攻撃されるか、または恭順の意を示し毛利氏に従うかの二者選択を迫られた。恭順の意を示すとは、七尾城にかくまっている永安兼政主従の首を差し出せということであった。
  益田藤兼は、熟慮の末、永安兼政主従に切腹を命じ、ついに毛利氏に従う道を選ぶ。1559年12月のことと伝えられている。永安氏の最後である。
 その首約200余は、吉川元春の領地大朝の新庄へ送られその地で検分されたと言う。



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【アクセス】
広島方面から弥栄村へは、国道186号線を金城町を目指します。金城町田の原というところあたりで、周布川ダムのある方向へ向かって県道に入ります。弥栄村方面の標識がありますのでわかります。
県道をそのまま弥栄村方面に進行していけば、弥栄村役場の前を通ります。役場の前にそびえている山が永安城跡です。役場前の駐車場に史跡説明版が立ててあります。 城跡へは、役場前の運動公園の前から山道がついています。きつい山道ではありません。
 郭跡などの遺構が確認できますが、それ以外の目立ったものは確認できません。
 益田一族の三隅氏の居城跡高城や周布氏の居城鳶の巣山城跡など益田氏関連の史跡を見学して、浜田市方面から進行していくのもいいかもしれません。 道路はカーブの多い道路です。


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