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鳶の巣城跡   島根県浜田市



鳶の巣城は、石見の大豪族益田氏の支族周布氏の居城跡である。現在の島根県浜田市周布地区に所在する。
 周布氏と益田氏、その他の益田一族の略系図はこちらを参照されたし
  周布氏は、中国地方に毛利氏が台頭したあとも、他の益田一族の福屋氏、三隅氏、永安氏のように毛利氏に滅ぼされることなく、江戸幕府の下で毛利輝元に仕え、長州藩で活躍していく。
 幕末の長州藩の藩政改革を建て直し、吉田松陰のよき理解者で、彼を支えたことで有名な周布正之助は、この周布氏の子孫である。長州藩では、元々の本家にあたる益田氏とともに藩の家老職を務める家格として待遇された。
  その理由の一つが、厳島合戦の前夜、周布元兼が毛利隆元を烏帽子親として一字賜っているように、早くから毛利氏との結びつきを強化していたことにあると考えられる。このあたりの動向は、他の益田一族の動きとは異なっている。
 周布氏の開明的な資質と経済的な資質は、周布氏が置かれていた地理的境遇のおかげと言うべきかもしれない。
 室町時代、周布氏は朝鮮貿易を継続的に行っていたことで知られていて、視線はむしろ大陸に向いていたようである。
 周布氏に遅れる形で本家の益田氏も大陸貿易に積極的に関わるようになるが、益田氏が主に主家筋の大内氏経由で大陸貿易を行っていたのに対して(益田氏は博多に大陸貿易を行うための基地として大内氏から飛び地をあてがわれていた)、周布氏はまったく独自のルートで朝鮮と継続的な貿易を行っていたとされる。
 現在でも浜田の海岸を歩いてみればわかるが、山陰の海岸には朝鮮半島からの漂流物が自然と流れ着くのである。その昔、朝鮮の船が多数漂着したのもうなずける。出雲には当時朝鮮からの漂着人や倭寇などによって略奪されてきた朝鮮人が住み着いていた集落が存在していたとされている。
それほど、山陰と朝鮮大陸とは密接な関係にあったのである。
 周布氏が朝鮮との接触を持ったのは,そうした偶発的な機会であったと言われている。
 現在の浜田市の長浜という港に朝鮮船が漂着し、それを周布兼仲が丁重に朝鮮本国に送還する手はずを整えたことに始まるとされる。それに対する朝鮮からの礼があまりにも贅を尽くしたものであったことで、周布氏も朝鮮という国の経済力に味をしめたのだろう。何やかのと理由をつけてその後も朝鮮に船を遣わしていくようになるのである。
 戦国期の益田氏一族の経済的背景には、朝鮮や中国本土との大陸貿易による莫大な利益があったと考えて当然である。
 画聖雪舟が、なぜ大内氏を頼ったり、益田の地に着たり、浜田付近をうろついていたか、すべては大陸との接点から考えれば合点のいくことである。こうした当時の大陸とのダイナミックな国際関係を視点に入れることで、始めて見えてくるものもある。
 原田伴彦氏も指摘しているように、周布氏は、表では貿易という経済的行為を行う一方で、裏では倭寇的行為も行っていた倭寇の親分でもあったのであろう。 長浜は、そういう倭寇の拠点として当時の明には知られていたという。

 



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