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岩戸山古墳つにいて

この岩戸山古墳は 521年継体天皇のとき起きた《磐井の乱》で殺された磐井の墓とされています。
通説では 《磐井の乱》と言われていることからもわかるように、この内乱は あくまで大和朝廷に対する地方の豪族の反乱という歴史的位置づけとされていますが、考古学者の森浩一氏は別の視点からこの磐井の乱について説明しています。 私も氏の解釈に大枠では賛成する立場です。 歴史的事件は どの視点から見るかによってまったく意味合いが変わってくる典型的な一例です。 

  《敗者の古代史》の中で 森浩一氏は 磐井に対する解釈は、大和政権に対して この政権の支配下にあるような地方の豪族ではなく、 筑紫地方の《王》という解釈です。 《君》という呼称は大和政権に従属する立場の者に対する位置づけであるが、磐井の場合は 筑紫地方の地域国家的の主権者としての立場であったろうと解釈しています。したがってその限りにおいても磐井の場合はれっきとした《王》という立場であったのであるから、そもそも《乱》という言い方が間違っていると説明されています。 したがって、これは、大和政権と筑紫の地域国家との《戦争》というのか適切なのだということです。大和政権の侵略に対する当然の抗戦というのがこの事件の歴史的解釈ではないかというものです。  大和政権はこの磐井を鎮圧することで、北部九州の制圧に成功することになります。 南九州には 《熊襲族》と呼ばれていた人々が まだ残存していることになります。

  磐井の勢力は 森浩一氏はによれば、現在の大分県全域から福岡県全域、海神族の安曇氏あたりまでを勢力下に収めていたのではないかと推測されています。安曇氏は現在の宗像神社につながる海神族になります。 磐井が朝鮮半島の新羅と手を結んで対抗したことは、朝鮮半島の新羅と百済との代理戦争的な面もあるかもしれません。 石渡信一郎説では 応神天皇は百済の王で 継体天皇はその弟に当たると言われていますが、百済と大和政権の濃厚な関係は合理的に説明できますので、その線は一考に値すると思います。

  磐井はもともと九州地方つまり筑紫の地に勢力を有していた先住民の後継で、神武東遷物語に投影されているニギハヤヒの子孫物部系統とルーツは同じことになるのではないかというのも森浩一氏の説明です。そうしますと、朝鮮半島から新たに大和に乗り込んできて大和政権を作り上げた継体天皇系統と、もともと筑紫の地を勢力化にしていた物部系統の磐井とは 雌雄を決する戦いは避けて通れないものだったということになりそうです。


《宇佐八幡と古代神鏡の謎》という本の冒頭で、田村圓澄氏は、磐井について、ヤマト政権より朝鮮半島の情勢について正確な情報を入手していたこと、北部九州においてかなりの勢力を保持していたことをあげながら、開明的な国際感覚を指摘されています。そして大和地方には百済系の渡来人が多かったのに対して、北部九州は、それよりはるか以前から 伽耶系、新羅系の渡来人が多く住み着いていたことも指摘されています。福岡県の田川町、香春町の新羅渡来人の居住地とその目的が銅の採掘にあったことが指摘されています。これは新羅の人々の高度な鉱物資源開発の技術が当時の倭国に期待されていたからこそ、北部九州に早い時期から渡来してきていたと思われます。磐井はそういう背景の中で、ヤマト政権と対峙するに至ったたのではないかと思われます。




 
 



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