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第27回 友情の古戦場 響ヶ原古戦場跡




  熊本県宇城市を通る県道32号線近くの小高い丘に《相良堂》と呼ばれている神社があります。この神社はこの地で戦死した肥後の豪族相良義陽を祀る神社です。 神社の奥には小さな祠が鎮座していますが おそらくこの場所で相良義陽が床几に掛けたまま打ち取られたと言い伝えられている場所ではないかと思われます。

  相良氏についてはサムライたちの墓―相良氏の墓 を参照してください。

  相良義陽は相良氏第18代当主として12才で相良氏を受け継ぎ、台頭してきていた南の島津氏との抗争に否応なく巻き込まれていきます。 島津氏との抗争が最終局面に入ったのは 16代義滋以来約40年感にわたって支配してきた薩摩北部の大口の地を島津氏に奪われてしまってからです。
  時は九州の勢力図が大きく塗り替えれる時代でした。 それまで大友氏と好を通じて 島津氏と対抗していた相良氏は、大友氏が耳川合戦で大友氏が島津氏に大敗退したことで、その後ろ盾をうしなうことになり、相良氏単独で島津氏に対抗せざるを得ない状況となります。

  九州北上を目指す島津氏を 相良義陽は八代にて迎え撃つ態勢に入りますが、当の島津義久は 背後の海路天草方面から宇土を攻略、完全に退路を断たれ、八代に孤立してしまいます。 ついに義陽は島津氏に降伏します。 島津氏は降伏した相良義陽を 九州北上戦の最前線に立たせ、かつての阿蘇氏に立ち向かわせることにします。 その阿蘇氏の知将として聞こえていた、かつての盟友甲斐宗運が義陽の前に立ちはだかることになります。

  相良義陽はかつての盟友甲斐宗運との合戦にある特別な思いを持っていたのではないかと推測します。 彼が激戦地の中から退却することなく その場で打ち取られたのは、覚悟のうえではないかと思われます。 退くも島津氏という地獄、進むもかつての盟友甲斐氏と阿蘇氏を倒さなければならないという地獄、義に熱い武将ならば葛藤がないはずがありません。 1581年12月、かつての義を分かち合った両者は この地で激突します。 
  相良義陽の墓は 現在八代市の肥薩線沿いにあります。
  現在の《相良堂》のこんもりした丘は その後 この地で戦死した相良義陽を弔うため 牛馬にその跡地を踏まれないようにとのことで、土を盛って現在のような丘陵にしたと言われています。 

 





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参考文献 《熊本県の歴史》森田誠一

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