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山中鹿之介  岡山県高梁市




  山中鹿之介と言えば『我に七難八苦を与えよ』で有名な悲劇的な武将として戦前は知られていたようですが、戦後はマニアックな歴史愛好家以外の人たちには知られることもなくなったようです。私自身も毛利元就を取材するようになって、山中鹿之介との出会いが始まりました。

 戦国時代の毛利家にとっての最大の敵は、実はこの山中鹿之介だったと思います。毛利元就が山陰の覇者尼子氏を降ろした後も、神出鬼没の行動で毛利氏を悩まします。
 山中鹿之介はもともと尼子氏の一族であり、1545年月山富田城近くで誕生したとして、その誕生地が現在でも残されています。山中鹿之介にまつわる英雄談は多く残されていて、少年の頃から並外れた武将としての才能を示していたと思われます。しかし単なる正統派、形式だけを重んじる人間ではななく、時代の荒波を自在に利用していく柔軟な才能をもったサムライだったと思います。
 
山中鹿之介は尼子氏の家臣ランク付けでは、《中老》クラスにあたり、2万石の知行を受けている家臣でした。《中老》クラスは《ご家老衆》《御一門衆》に次ぐクラスで尼子家臣団の中ではトップ15人の中に入ります。しかし1566年月山富田城が毛利元就の前に陥落すると、当主の尼子義久とその弟二人は毛利方に引き取られていきますが、尼子氏家臣たちは離散。その間各地を流浪したようです。
 
その後、京都の東福寺に預けられていた尼子誠久の子孫四郎を知るに及んで、彼を環俗させて、《尼子勝久》と名乗らせ、出雲奪回の戦いを始めていきます。孫四郎は新宮党が当主尼子晴久に粛清されるいわゆる《新宮党事件》の際、乳母の機転で危機を脱出、一命を取り留めて、僧籍に入っていたわけです。
 この勝久を担ぎ出しての尼子氏再興の戦いは、その後三回に及んでいくことは、皆さんご存知のことです。
 
復習してみますと、一回戦が1569年から始まる月山富田城奪回作戦。しかし毛利方の知将天野隆重死守する城は容易に落ちず、そうこうするうちに九州戦線を収めた毛利軍が出雲に進撃。月山富田城前方の布部城で合戦。この布部合戦で敗退し、勝久は隠岐に遁走。山中鹿之介はついに吉川元春に降参。この時元春は即刻鹿之介の首を打つよう命じたらしいのですが、部下の宍戸隆家と口羽通良が鹿之介の人物を惜しんで命乞いをしたと言われています。しかしこれが仇となります。鹿之介は毛利の恩義を感じるどころか、尼子氏再興への野望は衰えることなく、厳重な監視下、ある日、下痢をしていると言い、何十回も厠を往復、油断した隙をついて厠の中から脱出。脱兎のごとく駆けていきます。

 次が二回戦。この二回戦は鹿之介のゲリラ活動によって進められます。尾高城から脱出した鹿之介はしばらく出雲の仁多郡の岩屋寺に潜んでいたらしいのですが、周辺でゲリラ活動、略奪などを繰り返しながら、山賊 海賊などの徒党を集めながら活動基盤を作り出します。その後彼が目を付けた場所が因幡の地です。因幡の守護山名豊国が当時家臣武田高信に追放されていて、その対立を利用して鹿之介は山名豊国を抱えて見事因幡奪回を実現させてやります。しかし彼の本願は出雲奪回であり、山名豊国に見切りを付けた彼は、京にいた同僚の立原久綱の連絡で織田信長に会見するため因幡を去ります。織田信長の援助を受けることになった鹿之介は、明智光秀の山陰方面軍の指揮下に入り、信長の中国攻めの先鋒として因幡に攻め込みます。はじめは信長側についていた豊国ですが、吉川元春率いる毛利軍が因幡地方に進撃するに及んで、豊国はたちまち毛利側に寝返ります。そうしますと、勝久、鹿之介の軍は孤立。若桜鬼が城にこもっていた勝久ですが、勝機なしと見るやとっとと城を捨てて京へ引き上げます。これで二回戦も敗退です。

 次はいよいよ最後の戦いです。山陰方面からの出雲奪回が無理と判断した鹿之介主従は、山陽方面軍を統括していた秀吉の軍に賭けます。これが名高い《上月城の戦い》になります。この戦いについては、《古城紀行》シリーズの上月城、また、勝久の最後については《史跡物語》シリーズ第九回に取り上げてありますので参照して下さい。

 上月城の戦いで秀吉に見捨てられ、毛利軍に捕らわれた鹿之介は護送中備中高梁の高梁川の《阿井の渡し》で渡川しようと川に入ったところを後ろから一刀両断されます。多分吉川元春あたりからの指令が出でいただろうと推測できます。34歳の生涯でした。《波乱万丈の生涯》とはまさしく山中鹿之介にふさわしい言葉かも知れません。
 忠臣としての鹿之介がよく言われますが、それに疑問を投げかける人もいます。主家への忠節だったのか、単なるアンチ毛利だったのか、出雲への郷愁だったのか。
 鹿之介の子孫新六幸元が《鴻池》の創業者であることはよく言われているところですが、幸元は子供、孫と諸説ありますが、鹿之介の活動拠点が美作、因幡、但馬と広範囲にゲリラ活動していたこと、同僚かつ娘婿であった亀井滋矩の朱印船貿易への熱意など、商魂の伝統は確かにあるだろうなというのが私の感想です。
 
関連情報
古城紀行―上月城跡
サムライたちの墓―尼子勝久夫妻の墓

 
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