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毛利家の中国地方制覇を支えた家臣団
元就の家臣団編成は、元就の勢力拡張のプロセスで変遷していきますここでは毛利家に伝わる『毛利元就座備図』というものを中心にして元就の家臣団を紹介します。
下の図は、毛利家に伝わる『元就座備図』というもので、元就を中心にして家臣たちの席順を示したものです。江戸時代には、このような絵を床の間にかけて、先祖の功績を偲んだようです。
『元就座備図』には、何種類かあってその時々の席順と家臣の顔ぶれも異なりますが、下の図は吉田町歴史民族資料館蔵のものです。
毛利氏の家臣団は、以下のように分類される
一門  −元就の息子である吉川元春と小早川隆景、元就の娘婿宍戸隆家

親類衆  − 毛利庶家から発生した福原氏、坂氏、桂氏、志道氏、口羽氏、

譜代衆―  −毛利氏に早くから臣従した被官や周辺の小豪族の児玉氏、赤川氏、井上氏、中村氏など

国衆 −熊谷氏、天野氏、阿曽沼氏、平賀氏、和智氏、三吉氏、山内氏など  
国人領主として毛利氏と対等な関係を維持しながら、早くから毛利氏に合力した国人領主たち

外様 −尼子氏と大内氏に従っていたもの

中村元明
 中村氏は、鎌倉期に甲斐国中村庄を領し、南北朝期、中村兼貞の代に足利尊氏より安芸国高田郡上土師・中土師・下土師を宛行われ、1341年、土師郷に下向した。代々安芸国守護の武田氏に属していたが、繁勝・元明兄弟の代に所領を接する毛利弘元からの勧誘を受け、元明は、兄を切腹させて弘元に帰属し、土師にて270貫を領したという。
弘元の嫡子興元が上洛した時は側近として仕え、興元死後の大1523年、元就に宗家相続を要請した毛利家宿老の一人でもあった。
中村氏は、1600年、毛利氏が萩に転封されるまで土師の田屋城に居住し、付近には中村家のものと伝える墳墓群も残存していたが、1973年の土師ダム建設により、城の一部を残して水没した。


井上光兼
1550年、元就によって一族郎党30余名が誅伐された井上一族の惣領家の当主にあたり、誅伐された井上一族の中心人物井上元兼の父にあたる。しかし元就の井上誅伐のメンバーから外されている。これは、元就の幼少時より井上光兼にはよく遇されており、元就もそれに応えたものと推定されている。
  元就の回想によれば、猿掛城時代、光兼の邸宅に一人の客僧が訪れ、大仏の大事を説いた。この時、11歳であった元就は、お椙の大方殿に伴われて光兼の邸宅を訪れ、念他の伝授を受けている。爾来元就は、念仏の大事を心に刻み、生涯毎朝念仏を唱えるようになったという。  井上元兼誅殺による井上家は、誅伐を逃れた元兼の弟によって再興されている。

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国司元相
幼少の時より隆元の守役として側に仕え、隆元の一字をもらい、元相(もとすけ)と名乗る。
 1540年の郡山城合戦では、尼子方の武将34人を打ち取るなど、勇将としても聞こえ高かった。
 隆元の5奉行人体制が始まると、その一人として抜擢され、その地位は元相亡き後は、その嫡子に受け継がれた。
 正親町天皇の即位料寄進のさいには、隆元の使者として京に上がった。
 長州藩では、家老職として重責を占める家柄となった。

児玉就忠
元就の信頼厚く、元就の奉行人として活躍する。また1550年、隆元の下に5奉行人制度が確立すると、隆元の奉行人の一人としても抜擢される。隆元と元就との仲介役としての存在意義が大きかった
 隆元からの5奉行人としての加増の要請が元就にあっときも、元就はこれを元就の奉行人としての立場から拒否していることから、終生元就の側近としての役割が大きかったようである。  毛利氏直属の水軍の指揮者児玉就方は、就忠の弟にあたる。

飯田元親
飯田氏はもともと信濃国飯田荘を領していたが、飯田師貞の代に毛利時親に追従して安芸に下向したと伝えられている。
 元親は、児玉就忠の孫にあたるが、飯田家の家督を相続した。
 1516年の有田合戦に戦功をあげ、元就家督相続要請の連署に署名した宿老一五名の一人でもある。

赤川元保
赤川氏は、小早川茂平の末裔にあたり、信濃赤川村に本拠を構えていたことから、赤川氏と名乗るようになった。
 毛利時親の安芸国吉田への下向に追従し、爾来譜代家臣として重きをなした。
1523年、元就に家督相続を要請した宿宅十五名のうちの一人で1550年、五奉行制の成立後は、隆元に直属する奉行人の筆頭として手腕を発揮したが、元就付きの奉行人(児玉・桂)と対立し、その専横ぶりは元就のみならず、隆元をも苦慮させた。こうしたなかで1563年8月、尼子遠征救援に向かう途中、隆元が備後の南天山城主和智誠春の饗応をうけた直後に急死する。元保は隆元急死の責任を追及され、1567年、元就の命令によって自刃し、養子又三郎(弟元久の実子)や元久らも誅伐された。
  その後、元保は隆元に対し和智氏の饗応に行くことを再三意見して止めていたことが判明し、元就は元保の兄就秀の次男元通に跡を継がせて赤川元保の家を再興させた

粟屋元秀
粟屋一族で、惣領家の粟屋元国とは別系。毛利弘元の代から譜代家臣として仕え、毛利興元の京都出陣にも従った。
 元就の家督相続にあたり、主家の粟屋元国の指示で、京都に上がり将軍に家督相続の許可を直訴した。元就家督相続要請の連署に署名した宿老一五名のうちの一人。

渡辺長
譜代家臣渡辺通の嫡子。
  渡辺通は、元就相続のさいに誅伐された譜代家臣渡辺勝の嫡子である。居城長見山城が元就らに襲われた時、通の妻が備後の有力国人領主山内氏の乳母であったことから、山内氏に庇護され、そこで成人する。のちに山内直通の要請で、元就の家臣に復した。
 渡辺通は、大内義隆の尼子遠征に失敗し、元就が殿を務め、大森銀山付近あたりで敵兵に追撃され絶体絶命に陥ると、元就の甲冑を身につけ、身代わりになり、元就父子を助けたことで、その後毛利家中にあっては、 歳首甲冑の賀儀において通の子孫が先ずそのことに預かる名誉を与えられたという。
 長(はじめ)は、その通の嫡子で、1548年備後神辺、1551年安芸高屋、1552年備後志切、1555年の厳島、1561年豊前門司表の合戦などに参陣して活躍。
 1585年には周防国山珂郡三瀬川村などを宛行われた。1588年には輝元に従って上洛し、豊臣の姓と飛騨守・従五位下を授けられている。

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平佐就之
平佐氏は、毛利元春の四男中馬忠広の次男広貞が高田郡平佐(吉田町多治比)に居住して在名を称したのに始まる。就之は、元就の御手廻役をつとめ、家臣たちから元就への申し出を取り次いだり、使者をつとめるなど元就側近として活躍、また毛利家の年寄衆の一人でもあった。
  1563六年の出雲白鹿城攻めでは、桜井就網とともに寄せくる敵を追い返し、小高丸を奪取して元就より感状を得ている。  天正末年の惣国検地において給地替えされ、備後府中木梨領の内で2〇〇石を打渡されている。
  就之の妻は、もと粟屋就俊の妻であったが、1552年、就俊が戦死したため、元就の命によって就之に嫁いだ。この時彼女は懐妊しており、ほどなく男子を誕生したため、元就はこの子に就俊の跡を継がせて粟屋就貞と名乗らせた。しかし就貞は1573年8月、紀州態野山音無川にて溺死したため、就之は、就貞の嫡子元貞を養子とした。

坂元佑
元就家督相続後に起きた元綱擁立の謀反の罪で、誅伐された坂氏の一族。このとき幼少であった元祐は、安芸の国人領主平賀隆宗のもとに落ち延び、そこでしばらく仕えていたという。隆宗の戦死による平賀氏の家督相続に元就が介入した時、元の主君である毛利氏の家臣となったと言われる。
 元就の防長制圧後、周防の土豪勢力の監督任務にあたる。また大友宗麟との戦いで、周防の土豪勢力を率いて、立花城攻略にも活躍している。

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桂元澄
妻は福原広俊の娘。後妻は志道広良の娘。父広澄は、毛利氏の庶家で毛利弘元・興元の代に執権職の地位にあった坂広明の嫡子にあたるが、桂村(吉田町)に居住して姓を桂に改めた。
 1523年、元就に毛利宗家の相続を依頼した宿老十五人のうちの一人。1524年、一族坂広秀らの元就に対する反逆が露見し、父広澄は自刃、元澄・元忠兄弟も城に籠もって死を覚悟したが、元就になだめられたという。
  1554年5月、毛利氏が陶晴賢と断交し厳島神社の神領であった安芸佐西郡を占領すると、厳島神社神主家の本拠であった廿日市の桜尾城を預けられ、1569年に元就四男の穂田元清が入城するまで、桜尾城に在番した。元澄の所領は五男広繁が相続し、元清を補佐した。広島県廿日市市の洞雲寺に穂田元清夫妻の墓と並んで夫妻の墓がある。

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口羽通良
志道元良の次男。妻は福原広俊の娘。
 毛利家の執権職にあった兄広良が死去した1557年ころから、兄にかわって抜擢された。志道広良の次男とする系譜もある。初めは志道姓を名乗ったが、のち石見国邑智郡口羽村(羽須美村)を領し、在名の口羽を称した。
  おもに吉川元春を補佐して毛利領国の山陰支配にあたった。また毛利一族の吉川元春・小早川隆景、ならびに譜代筆頭の福原貞俊とともに、当主輝元を補佐する毛利家最高幹部の一人として政策決定にも参画するなど毛利家の権力の中枢に位置した。

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志道広良
志道氏は、毛利弘元の時代に執権をつとめた坂広秋の四男元良が安芸国高田郡志道村(広島市安佐北区白木町)に居住して志道を称したのに始まる。元良の嫡男に生まれた広良は、毛利興元・幸松丸と元就前半期の執権をつとめ、政務の中枢にいた。
 興元の執権をつとめていた1513年には、多治比の猿掛城にいた元就(17歳)から興元への奉公・忠節を誓わせる起請文をとりつけ、元就が若気のいたりで無理難題を申懸けた時は、広良から意見してほしい旨を申し出させている。
   1523年、幸松丸が死去すると、元就に宗家相続を要請し、15人の宿老とともに元就に忠誠を誓約し、家督祖続の中心的役割を果たした。1557年、91歳で没。

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福原貞俊
譜代家臣福原広俊の嫡子で毛利氏譜代家臣筆頭。
  1550年7月、井上一族粛清直後に毛利家臣団全員が元就への忠誠を誓約した起請文の筆頭に署名。元就から正直にして表裏なき人物であると信頼され、隆元死後、吉川元春・小早川隆景ともに、毛利家の首脳部を構成し、のち口羽通良を加えた四人衆が、毛利家の最高意志決定機関となり、天正12年(1584)頃まで輝元の領国支配を補佐した。
また口羽通良が吉川元春と行動を共にし、主に山陰方面を担当したのに対し、貞俊は小早川隆景を補佐して主に山陽・瀬戸内方面の支配を担当した

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宍戸隆家
安芸国では、毛利氏と肩を並べる程の有力国人領主であった宍戸元源の嫡孫にあたる。幼名を海賊と言った。

 幼少期は、訳あって、母方の実家、備後の有力国人山内氏の下で養育され、七歳にして五龍城へ引き取られたという。
成人するまで隆家の叔父にあたる隆忠が執政していたが、家臣の讒言に耳を貸し、登城してくる隆忠を待ち伏せして暗殺したという。
 宍戸元源の代に、盛んに毛利氏と勢力争いを重ねるが優劣決しがたく、元就が家督を継ぐと、1543年元就の娘と元源の嫡孫隆家の婚儀を取りつけるに至り、爾来宍戸家は毛利一門として元就の中国制覇の藩屏として活躍していくことになる。
 郡山城籠城戦のおりには、支族の深瀬氏が備後方面からの尼子勢を撃退するとともに、宍戸隆家はみずから郡山城に籠り活躍してる。
 母方が山内氏であったことや、七歳まで山内氏の下で養育されていたこともあり、備後北部の国衆を 「御一手衆」として束ねる役割を担う。
 また軍事的にはほとんど吉川元春とともに行動し、山陰方面に出動している。
 毛利氏との婚姻関係も深め、隆家の娘を輝元の正室にしているが、これは元就の意向であったという。 元就が宍戸氏に対して軍事的に最後の頼みとしてしていたと言われているから、まさしく元就の期待した通り、毛利氏の藩屏として絶対の信頼を勝ちえていたと言える。
 長州藩では、はじめ周防の右田(防府市)に領地を与えられるが、元就の七男元政と領地交換が行われ、周防三丘(熊毛町)に1万石余の給地を与えられた。
 *肖像画は、甲田町郷土資料館蔵のものです。

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