Samurai World>歴史再発見




第45回  討幕は貨幣密造から


前回第44回―なぜ徳川幕府は見捨てられたのか、に引き続き今回も徳川幕府崩壊にまつわる話をしたいと思います。
 前回では徳川政権崩壊の背景として、上部構造的側面について触れたわけですが、同時にひとつの時代が終わりを告げるには、上部構造だけの崩壊では可能ではないわけで、当然下部構造的要因があるわけです。
  徳川政権の経済的崩壊が急展開するのは、ペリーによって鎖国に終止符が打たれ、日本が否応なく国際経済の中に放り込まれたあたりからです。閉鎖的な国内経済が国際経済に飲み組まれていった過程のなかで徳川政権に止めが刺されるわけです。これが前回の上部構造的要因に加えて、最後の止めを刺すに至った直接的な要因ではないかと思います。マクロ的な経済状況については、別の機会に譲りたいと思いますが、今回は、なぜ薩摩は徳川政権を武力で妥当するだけの経済力(軍資金)があったのか、当時の日本の各藩が財政的に崩壊寸前にあった中で、薩摩はなぜ討幕に向けて動けたのか、ということです。
 因みに島津斉彬が登場する前の薩摩藩の財政状況は、現在で言えば完全破綻状態、財政再建団体に指定される藩であつたものの、調所広郷の改革によって、500万両の負債を乗り越え、百万両ばかりの蓄えを持つに至る状態でした。調所が改革を行う前の薩摩藩の現金収入は15万両前後だったといいますから、500万両の負債の利子すら支払うことができない状態でした。

 


 
左の写真は鹿児島県加治木町に残っている鋳銭所跡の史跡碑です。気をつけて探さないと見つからない程に目立たない史跡です。
 この史跡は、加治木銭を
室町時代に鋳造していた場所です。古くから銭を鋳造しようとする動きが薩摩にはありました。
 
 ところで、幕末薩摩の鋳造計画に携わった人物に市来四郎という人がいます。この人の自叙伝によれば、嘉永五年市来四郎26歳の時に、島津斉彬から銭の造りかたを覚えろと密命を受けたとあります。江戸から西村という茶釜職人を招いて加治木のとある工場で、茶釜製造は表向きのことにして、そこで密かに西村から銭の造り方も教われということです。この西村という人物は、一介の茶釜職人ではなく、江戸の鋳銭局の頭工でもあったと市来は記しています。島津斉彬が引き抜いてきたんだろうと思います。
 ところがこの貨幣密造計画は島津斉彬の急死で頓挫します。

ところが、薩摩はしぶとくこの計画を温存していました。
 市来四郎35歳のとき、薩摩藩内だけで通用する《琉球通宝》を三ヵ年期間限定付で製造許可を幕府から獲得し、市来四郎が島津斉彬存命の時、鋳造についての経験があるということで、その担当者に任命され早速貨幣造りを再開します。
  しかし、幕府への届出は《琉球通宝》を鋳造することになっていますが、この《琉球通宝》を当時の貨幣《天保通宝》とまったく同じ形量にしたようで、その真意は当然はじめから《琉球通宝》など造る気はなく、《天保通宝》を造るつもりであったことは市来四郎も間接的ながら自叙伝の中で触れています。完全に幕府をなめきっていたことが伺えます。
  それからというもの、藩内のありとあらゆる金銀銅錫など、貨幣の原料になるものが集められます。その矛先が向かったのが寺院の鐘だったのです。薩摩藩内の廃仏毀釈運動の背景はこの動きとも密接に繋がっているわけです。また藩内のいたるところで鉱山開発が行われていったといいます。このようにして、日々貨幣密造に薩摩藩総力を挙げて、薩英戦争で中断されながらも三ヵ年で290万両余を鋳造したと記しています。
 先に調所広郷の財政改革で蓄えた百万両は、三分して、そのうち一分は隠居の島津斉興に差し出され、残りが藩の財政に回されたものの、ほとんどが島津斉彬の積極的な殖産投資に向けられ、当時50万両ほどしか残されていなかったようです。市来四郎によれば、幕末のさまざまな支出には磯の鋳造場(上の写真)で造られた《天保通宝》でまかない、藩庫の50万両には手をつけず、これが討幕の軍資金になったということです。
inserted by FC2 system