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宗像大社


  宗像大社は、古くからこの地を本拠としていたと考えられる海人族の宗像氏の神社として知られています。

 正木晃氏の《宗像大社・古代祭祀の原風景》によれば、世界遺産として登録されている沖ノ島には、古く縄文前期(約5,6千年前)からこの島に人々が渡来していたとされます。何のために渡来していたかといえば アシカ漁だったのではないかと推測しています。 縄文時代ははもっぱら実用的な面で縄文人と沖ノ島が結びついていたのに対して、沖ノ島で祭祀が開始されるのが、四世紀ごろからということです。 その目的は 朝鮮半島との交易上の航海安全祈願だったと思われます。 沖ノ島の最古の祭祀古墳から大きな鉄の延べ板が発見されてことで、日本国内で鉄の生産が開始される以前、朝鮮半島から鉄を輸入していたと推測されています。その交易のための海上交通の祈願所として 機能してきたと考えられています。

  この地の有力一族であったのが、宗像氏と言われていますが、この宗像氏のルーツは明確ではありません。 海洋民族の伝統文化を受け継ぐいわゆる《海人族》であることは、大体の意見の一致しているところです。《海人族》として知られている有名なものに、信州諏訪地方の安曇一族、愛知県の海部族などがいます。名古屋にある熱田神宮は、彼ら海人族と関係している神宮であると思われますし、ここに三種の神器の一つ真正の剣が所在していることの意味は、実に意味深だと思います。

  あと正木氏の指摘するところで、傾聴すべきことは、この宗像氏と天武天皇こと大海人皇子は、同じ海人族を共通のルーツにしているという点です。 宗像氏の女の尼子娘(あまこのいらつめ)が大海人皇子に嫁いで、高市皇子を生んでいます。大海人皇子が挙兵したとき、彼を支援したのが現在の現在の愛知県にいた海部一族ですし、彼の若い時の氏名からして、海人族と濃密につながっていることはわかります。 宗像氏の祭祀の神社が、こうして天皇家の物語の中に織り込まれていくようになったのではないかと推測されています。

  因みに 奈良時代末期には、沖津宮、中津宮、そして本土のこの地の宮を合祀し、この地を宗像大社として営むようになったようです。

 2020年3月1日付けの新聞報道で、沖の島から出土したガラス製品が調査の結果5~7世紀の現在のイラク由来のものと判明したということです。これには、二つの解釈があります。ひとつは、物だけが運ばれてきたのか、物を携える人々が渡来してきたのか。 奈良の正倉院の物にも言えると思いますが、物だけが商人によって運ばれてきたと解釈するには、無理があるように思います。物が所在するということは、それを担うあるまとまった人々も共に渡来していると考えることが自然だと思います。以前、沖縄でローマ帝国の時代の貨幣が発見されたことがありますが、アジアの海と現在のアラブの紅海あたりとは、交易がされていたと思います。アラブ半島からインド洋を経てアジアのインドシナへとの交易ルートと、朝鮮半島経由での交易ルートは弥生時代以前から成立していたのてはないかと思います。江本出雲氏の《古代は生きている》の中で指摘されているように、日本文化の中には、アラブの文化が濃厚に反映していると言います。







 
 



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