Samurai World>武将たちの古刹探訪




大慈寺  鹿児島県志布志町

大慈寺は、1340年、玉山和尚が開山したと伝えられています。寺院の墓所にはこの寺で自害した楡井頼仲の墓があります。楡井頼仲という武将については、その出自などについてはよくわかって居ませんが、薩摩大隅地方において肝付兼重とならんで貴重な南朝方武将として一貫して、南朝側に立つ戦った武将です。九州地方では、肝付兼重と肥後の菊池武光が知られていますが、その菊池武光もこの志布志にまで攻め込んできて、大慈寺の楡井頼仲の墓に詣でています。
 
楡井頼仲は肝付兼重亡き後、大隅の一角から彗星のように現れ、瞬く間に大隅を席巻する勢いになります。当時は、大隅地方は、島津氏の勢力は及んでおらず、畠山氏の勢力が浸透していた地域であったので、畠山直顕と楡井頼仲との戦いが、京都の足利政権の構図を移し変えて、大隅の地で覇権争いが行われていたということになります。
 しかし結局、楡井頼仲は畠山氏側についた禰寝清有に攻められ、ついに大慈寺にまで追い込まれ、この地で自害して果てます。
 また、この寺から数百メートル離れたところに肝付兼続の墓もありますが、志布志に隠居していた兼続も息子の兼良が島津氏に高山城を落とされ、逃亡するところを拿捕され斬首されたことを聞いて、この地で自害して果てたとも言われています。


志布志にこのような古刹や日本庭園などが残されているのは、この街が江戸時代島津氏の藩政下で、交易港として栄え、その富を有する豪商や交易に必要な知識階層としての僧侶たちの働きが必要だったということだろうと思います。交易相手としては当然当時の中国人がいたと思います。密貿易屋敷が志布志城麓界隈の一角にあったと地元の史跡案内に記されていますが、現在は空地になっていて 地元の人の話によれば 何かを建てることも否定され、史跡案内の看板もなく、探すこともできないような空地で、あたかも何もなかったかのようにされているな感じです。
 港町として重要だったのは、志布志と隣接する宮崎の串間、その北に位置する日南の油津港などもあります。






 
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