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矢野城跡   広島市安芸区矢野



矢野城は、この地方の戦国時代の国人領主野間氏の居城跡である。別名発喜(ほき)城とも呼ばれている。
 野間氏がこの城の城主となる前、矢野城は、まったく別の武将の名前を刻み込んでいる。
 その武将とは、安芸国三入荘(広島市安佐北区可部町)の地頭職、熊谷氏の一族、熊谷蓮覚である。蓮覚は、足利尊氏に馳せ参じようと東上する安芸国の諸国人領主たちの連合軍にただ一人で立ち向かい、宮方の勢力地帯であったこの矢野荘があったこの地方のこの城に立てこもる。1335年のことである。
 東上軍の中心は、安芸国の守護武田信武であった。武田方を中心にした東上軍の攻撃は、その年の12月23日から同26日に至る四日間にわたって激しく行われる。立てこもった熊谷蓮覚とその部下たちは討ち死にする。
 その後、安芸国の中でも最後まで朝廷の勢力圏であったこの地方も、幕府の勢力圏の中に組み込まれていく。

 野間氏が、この地に地頭職として移動してきたのは、1445年ごろと言われている。
 野間氏のルーツは、清和源氏で、南北時代に宮方として活躍した足助重範の子孫と伝えられている。
 足助重範の次男重俊が、足利義満に仕え、その子重宗が義満より尾張国野間荘を与えられ、爾来足助改め、野間氏と名乗るようになったと言う。
 その後、重宗から五代目の重能が足利義政より矢野荘を与えられ、1445年この地に本拠を構えと伝えられる。
 野間氏の勢力が最大になったのは、重能より二代後の興勝のときである。興勝は、元々の地盤尾張から養子に入った人物で、彼の下で野間氏の勢力は、現在の広島湾の奥深くの海田町地域から、呉市、さらには音戸の瀬戸地帯まで及んだと言われている。このことからも、野間氏の勢力がとくに瀬戸内の海衆、警護衆を中心とした海上勢力にあったことが推測できる。
 戦国時代には、周防・長門の守護大内氏の陣営として勢力を保つ。しかし陶晴賢が大内義孝を打ち、陶氏が実権を掌握し、毛利元就と対立るようになると、陶氏の陣営として反毛利氏の動きをするに及んで、ついに毛利元就に城を囲まれることになる。
 興勝の子隆則の時代である。矢野城のろう城する矢野軍は、1500前後といわれる。対する毛利軍は総勢3000余。年4月11日に城へのからめ手が破られると、城主隆則は、岳父熊谷信直を介して降伏する。
 しかし野間氏に対する毛利元就の仕打ちは残酷極まりないものであった。
 和議に応じて城を開城した野間氏一族郎党を城外に出した後、山麓の菩提寺で皆殺したり、さらに残党は、城主の岳父にあたる熊谷信直の領地にて引き連れて行き、そこで熊谷に殺させる。
  城主の隆則は自殺したとも京都へ逃れたとも言われているので、この時すでにその行方は明らかでなかったと言うことであろう。岳父熊谷信直の計らいで、出奔させられたとも邪推。岳父熊谷信直とは、かの熊谷直実の子孫、法然に弟子入りした武将の子孫である。それくらいのことはやりかねないかもしれない。
 一族郎党は皆殺しされたが、島嶼部に進出していた野間一族の一部は、この地を領した吉川氏の水夫として、さらには江戸時代の浅野氏の水夫として生き残っていったという。
 現在、矢野城のある矢野町は、広島市に吸収され、広島市安芸区の行政区になり、かつて野間氏の初期城下町として存在していたことを知る人も少なくなりつつある。




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