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平季基の墓  鹿児島県曽於市

写真は 鹿児島県曽於市末吉に残されている平季基の墓です。 平季基は、島津荘園の開発者として忘れられてはならない人物です。 大宰府大監であった彼は、現在の宮崎県都城を中心に、大宰府役人を辞職して後 大規模な荘園開墾をはじめます。開墾した荘園は時の権力者藤原頼道に寄進し 日本一の大荘園へと発展していきます。 平季基自身は、娘婿の肝付兼貞に譲り、自らは大隈の末吉橋野に隠棲します。 このあたりことは、曖昧で平季基の息子に譲られ、その後に肝付氏に譲られたともいわれていますが、 とにかく、平季基の開墾した大荘園は肝付氏に譲られたことは確かなようです。  その後、鎌倉政権になり、頼朝とコネクションのあった惟宗忠久が、薩摩日向の守護に補任されることで、 島津氏と島津荘園とが関わりを持ってくるようになります。  平季基が、この地に目をつけたのは、彼が大宰府大監と職位にあって九州の現地視察をしていて、いまだ広大な原野のまま残されている この地に目をつけたのだろうと推測されます。  どうせ京都の朝廷で出世は望めない彼としては、地方の中級官吏として、現地で甘い汁を吸うことを考えたのだろうと思います。 目の前には手付かずの大原野が広がっている。これを私領化すればいい。それが彼の頭に浮かんできた着想たったろうと思います。  荘園開発と同時に彼は、都城に神柱神社を建立しています。その後末吉に隠棲してからは地元に梅北神社、若一神社を建立して そこの初代司官になっています。確かなバックグラウンドがない彼としては、自身の正統性も作り出さなければならなかったのだろうと推測します。  現在写真のように平季基の墓は、こじんまりと畑の片隅に置かれたままになっていますが、彼の事跡からして、もっと大切にされるべき史跡と思われます。


関連情報
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