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山田有栄(山田昌巌)の墓  鹿児島県出水市


写真は山田有栄こと山田昌巌の墓です。鹿児島県出水市の薩州島津家の墓所がある丘陵の頂にあります。 山田有栄は、山田有信の嫡男として誕生とします。山田有信は、島津義久の信任の厚い武将で、薩摩日向の外部からの押さえとしての城であった、日向高城の城主として、豊後の大友宗麟、豊臣秀長軍に対して、立派にその役目を果たします。薩摩武士の典型的な武将といった、豪快な武将だったようです。
 山田有栄は、秀吉軍に島津氏が降参すると、その人質として差し出されます。
成人すると、朝鮮出兵、関が原の戦いと島津氏の屋台骨を支えていきます。
 特に関が原では、当時福山の地頭だった山田有栄は、福山と浜の市のもの約30名ほどを従えて、関が原の合戦始まる2日前9月13日に義弘の陣地にはせ参じています。関が原への島津氏の参陣は、当主義久の黙認の下で行われたらしく、義弘を慕う、あくまで義勇兵という形で、各々関が原へ向かったのでした。
 関が原でのすさまじい島津氏の敵中突破は、ご存知の通りで、山田有栄は、義弘の影武者として殿を務めながらも、かろうじて堺まで義弘一行を逃がすことに成功します。山田有栄という武将の真骨頂は、この関が原にあったような気がします。
 江戸時代になると、出水の地頭に任命され、天草の乱では島津氏の名代として総大将として指揮を執っています。
 山田有栄が出水の地頭に任命されるわけですが、出水の麓は、薩摩藩の中でも、傑出した兵だけを集めた最強軍団として編成されます。これは薩摩への橋頭堡としての役割が出水の麓にはあったからです。その最強の薩摩軍団の指揮官として山田有栄が任免されたのも、関が原という戦場を生き残ってきた数少ない薩摩武士の一人として、また父有信に対する義久の絶大なる信認などを考えれば、当然の人選だったような気がします。
 晩年は、昌巌と号して、若者たちの指導教育に心を配り、《出水兵児》(いずみへこ)と呼ばれる、薩摩で最強の武士団を養成していくことになります。


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