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飫肥の儒学者 安井息軒

宮崎市と隣接する清武町の市街地を見下ろす丘陵地の一角に安井息軒の生家跡が残されています。
 清武は、日向の大名伊東氏が勢力を拡張する初期居城を構えた場所で、清武城跡に伊東氏初代の墓が残されています。

安井息軒という人は、幕末から維新にかけて生きた儒学者で、1799年安井滄洲の次男としてこの地に誕生。父滄洲も儒学者であって、幼少より父の影響を受けて学問に精出す勤勉家であったようです。安井家というのは、元を立たせば、出羽の安東氏をルーツとし、現在の群馬県前橋付近の安井村に至り、名を安井としたと伝えられています。その後、鎌倉から室町にかけての動乱の中で九州日向に下り、伊東氏に仕えるようになります。
 父滄洲自身が少年期から評判の勉強家であったらしく、息軒もその父同様、学問を小バカにする周囲の風潮も気にせずひたすら読書三昧の日々を過ごします。
 安井息軒について、よく語られることは、彼の身体的醜さで、これは幼少期の疱瘡がもとで痘痕が顔面に残り、片目が潰れ、その上背が低く猫背で歩く姿に、村の若者たちから《猿》とあだ名されていました。それでも彼はそんな悪口に動じることなく、勉学に精進し、後に14代将軍家茂から幕府学問所教授に任命され、維新後は明治天皇の侍講係りに推薦されるまでに出世して行くことになります。そのような息軒の学歴を簡単に挙げれば、22歳で大阪に留学、26歳で江戸の昌平校に留学、28歳で藩主伊東祐相の侍読になり、33歳の時、父滄洲が飫肥藩校振徳堂の総裁として招聘された時、同時に助教授として任命。そして40歳にして故郷を離れ江戸に家族と共に移住し、私塾三計堂を開き、江戸において儒学者としての名声はあまねく知れ渡るところとなります。
 ところで、安井息軒が昌平坂学問所に招聘されたいきさつは、1862年の幕府の幕政改革の一環としておこなわれたということです。この幕政改革の発端を作ったものは島津久光による東上です。この場面は大河ドラマ《篤姫》の中でも描かれていました。島津久光による幕政改革への要求によって、松平慶永が政事総裁職に、徳川慶喜が将軍後見職になり、矢継ぎ早に西洋列強に伍するための幕政改革が始まります。その改革の中の1つが、学制改革であり、これまでの林家だけによる昌平坂学問所の充実を図るべく広く有能な人材を起用し、洋学学問所を興したり、種痘所を幕府直轄所とし医学所と改め、後の帝国大学への足係りを作るわけです。そのような幕府自身による体制内改革の中での、息軒の登用でしたが、皮肉なことには、この改革の青写真を描いていたのは、松平慶永のブレーンどてあった横井小楠でした。しかし安井息軒は積極的開国論者であった横井小楠に対しては、快く思っていなかったようです。そのあたり、国家の新しい体制を具体的に考えていた思想家としての横井小楠と、勤勉な学者かつ教育者としての安井息軒との違いというところでしょう。
 学者としての卓越した努力と才能を持ち合わせていた息軒でしたが、身体的不恰好の故に、結婚については父も心配していたようで、果たして倅に来てくれるような嫁がいるかと心配する始末。しかし意外な顛末がやってきます。そのあたりの事情については、森鴎外が《安井夫人》という短編の中で語っていますので、関心のある方はぜひ一読してみてはいかがでしょうか。

幕末期における安井息軒の功績というのは、思想家というより、優秀な教師という役割だったように思われます。
父と共に清武のこの地に郷校《明教堂》を開校したわずか数年後には、藩校《振徳堂》が開校されるに至り、父と共に飫肥の藩校で指導にあたるようになります。その飫肥藩士の中から明治の大外交官小村寿太郎が世に出ることになります。


しかし飫肥での活躍の中にあって藩指導部との間に政策上のことで意見が合わないことがあったようで、ついに意を決して40歳にして江戸に移住します。江戸では《三計塾》を開校し広く全国の英才を指導していきます。塾名の由来は、一日の計は朝にあり、一年の計は春にあり、一生の計は少壮の時にありという塾の理念にあります。
 息軒の指導理念は、父滄洲から受け継いだもので《修身治国平天下》の精神にあり、国家天下の役に立つべき人材教育にありました。それは明らかに荻生徂徠に始まる《徂徠学》の伝統を受け継いだもので、厳格な指導の中にも、塾生一人ひとりの個性を見極めてそれを啓発していくのが息軒の指導方針でした。
 息軒が明治9年に没するまで三計塾の門を叩いた塾生その数約2千名。その中から数多くの明治国家創成期に活躍する人材を輩出していきます。陸奥宗光、谷干城、品川弥二郎などは代表格でしょう。
 18世紀後半から19世紀にかけて隆盛し始めた民間教育機関としての私塾と寺小屋は、やがて明治に入り《学校》という制度へと変貌していきます


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