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No.36 関が原合戦は 豊臣政権の内紛だった

  2006年度のNHK大河ドラマ《巧名が辻》もいよいよクラスマックスの関が原を迎えましたが、この関が原の合戦、誠に微妙なパワーバランスの上で駆け引きが行われていたようで、家康率いる東軍が勝つという確率はそれほど高いものではなく、ドラマの中でいみじくも山内一豊の台詞にあつたように、《家康を何としてでも勝たせなければ》というのが豊臣恩顧の大名たち共通の意識で、彼らの奮戦の結果、家康に勝利が転がり込んだように思えます。    

  関が原合戦というのは、これまでの常識的なイメージでは、西軍の豊臣勢力とその勢力を打破しようとする徳川家康勢力との天下分け目の戦いであり、これをきっかけとして新しい近世の幕藩体制への道が開かれていくという歴史観でした。  しかし関が原の構図は、そのような単純なものではなかったようです。 関が原の戦いまでの推移を秀吉政権内部の崩壊の結末として指摘されているのが、笠谷和比古氏で、《関が原合戦四百年の謎》の中で、詳しく論証しておられますので、今回は笠谷氏からみた関が原合戦の要点だけご紹介したいと思います。    

  まず関が原合戦の主力部隊は、東軍、西軍問わず豊臣秀吉恩顧の大名たちであること。関が原に陣を敷いた徳川家康の旗本部隊は、徳川の主力部隊ではなく、防御部隊中心の構成で、攻撃タイプの主力部隊は秀忠の率いる約三万八千の部隊であると指摘。 したがって関が原合戦現場における西軍と張りえる攻撃部隊の主力は、福島正則など豊臣恩顧の部隊であること。これが家康の部隊が中々敵陣に突入しなかった理由である。もともと家康を守るくらいの部隊であるということ。このことによつて、島津義弘の関が原敵陣中央突破という奇跡が、なぜ成功したのか、氷解するわけです。家康の本陣近くまで接近しながら、取り逃がしてしまうという失態をした理由も、笠谷氏の指摘されている家康の旗本部隊のタイプを考えるとすっきり理解できるのです。  西軍の宇喜多、島津、石田の各部隊に対峙していたのは、ほとんど秀吉恩顧の大名たちです。家康側として先陣に布陣していたのは、家康の四男松平忠吉、その舅の井伊直政、本田忠勝などわずかです。  このような関が原の布陣を眺めてみると、この関が原の戦いは、豊臣秀吉恩顧の大名たちによる合戦という図式が浮かび上がってくるようです。そしてこの関が原合戦へと通じる発端は、石田三成に対する加藤清正、黒田長政らの憎悪にも近い反感にあると指摘。関が原への前哨戦を豊臣七将による三成襲撃事件であることを指摘し、さらに、その襲撃事件の根っこは、朝鮮の蔚山城攻防戦の秀吉への報告を巡る石田三成ら官吏派武将たちへの恨み、反感であることを指摘しておられます。  朝鮮への侵略のころから、現地で戦っている武断派武将たちと、内地の大阪で戦争を管理している官僚派武将たちとの溝が、秀吉政権内部でじわじわと生み出されていたようです。また石田三成に対する反感は、太閤検地によってそれまでの自国内部に蔵入地として秀吉や三成の直轄地も指定され、自分の領地の中に三成の支配地ができた状態になり、三成への反感はこんなところからも噴出していたのではないかと指摘されています。  

  それでは最後に、関が原合戦への家康のスタンスは、どうだったのか。 会津の上杉征伐に出陣、江戸に入り、それから会津へと進行。途中で三成の挙兵を知り、有名な《小山の評定》が開かれるわけですが、このときの作戦では、徳川の主力部隊を秀忠に預けて信州方面の平定をしてから、家康軍と合流する中・長期的な作戦プランだったと指摘。しかしながら、清洲で家康の到着をいまや遅しと待っていた福島正則らは、一向に家康が江戸を進発しないことに業を煮やしていたのを、家康の挑発を受けて、岐阜城をわすが三日で攻略し、さらに大垣城へと侵攻。この事態に家康は焦り、急遽江戸を発ち、三成の予想を裏切って9月11日に清洲城に到着。なぜ家康は福島正則らの行動に焦ったのか。このままでは福島正則ら豊臣恩顧の大名たちだけで、つまり、徳川家康抜きで石田三成方の軍勢を負かす可能性が見えてきたからです。それでは、戦後における家康の地位は急激に低下していく可能性が生まれてきたからというものです。そこで家康は自分が到着するまでそれ以上攻撃をしないよう福島正則らに自重を強く求めて、急遽江戸を出発することになったと推測。  福島正則らの戦いが家康の予想を超えていたので、あわてて家康本人が江戸から出陣する羽目になったと。中長期的に進軍する予定であった中仙道の秀忠軍には、時間的に切迫した中でもはや家康の思惑がうまく伝わらず、結果として関が原に遅参したというものです。  

 関が原合戦の帰趨は、小早川秀秋の寝返りによって決定的になったと言われていますが、この小早川秀秋という武将も、反三成派を構成していた《ねね派》の武将であることを考えれば、西軍の中にも反三成派という矛盾を抱え込んでいたわけです。  私は、関が原のキャスティングボードを握っていたのは、毛利の動向だったと見ていますが、この毛利でさえ、反三成派の吉川広家がいたことで、約四万といわれている毛利全軍の一兵たりとも突撃しないままに、関が原をあとにします。  笠谷氏も指摘されているように、毛利輝元が秀頼を擁して、大阪城から関が原に直接出陣してきていたら、東軍の豊臣恩顧の武将は総崩れになっていた可能性もあります。しかし、毛利輝元の動きを封じ込めていたのも、吉川家広であつたろうと思います。

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