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戦国領主が寺を庇護したひとつの理由



 農民の場合、古来から『逃散』という形で農地を放棄して新しい土地へ移動してしまうのです。年貢が払えないほどきつい、領主が農民の苦しい状況を無視して課税してくる、そういうとき農民は『逃散』といって農地を放棄して逃げるわけです。
  こういう傾向は毛利元就の時代でもかなりあったとみえて、隣人の国人領主との間で『人返し』のルールを確認しています。

  封建社会では、耕す人々のいない農地など意味のない土地になります。ですから、領主の第一の職務は古来より、『勧農』だったわけです。
  土地を耕し、秋には豊かな収穫が期待できるように、農民にそういう環境を用意する、それが領主の第一の職務『勧農』です。 秋の収穫が終われば、労をねぎらって農民に酒や祭りを振る舞う。春には秋の収穫のために籾を貸し出す(当然利子を付けますが)。潅漑用水を整える。それが領主の第一の務めだったわけです。

  このように農民と領主の関係は、一方的な支配関係ではなく、持ちつ持たれつの関係にあったと言えます。武力によって農民が戦国領主に絶対的に服従していたような世界が戦国時代だったと勝手に想像していると大間違いです。


 『自立』している農民や日本全国を流れて歩く商工民−それが中世の日本に生きていた人々の姿です。そういう人々に対して、ある程度の領主としての権威、権力を認めさせていくことに成功しないと、とても徴兵はできない、まともに税も取れない。自分たち一族の生存権すら確立できない。
  よそ者である新しい領主の存在と権威を認めさせ、領主の法的世界を認めさせていく必要がある。そのために利用したのが古来より在地で信仰されてきた寺社だったと思われます。

  中世までの人々は、宗教的世界の中に生きていますから、古来より人々に信仰されてきた寺は、当時の人々にとっての究極的な権威の源泉と言えるような存在です。そういう寺を毛利氏のような新しい領主が保護していくことによって、人々の精神的世界を取り込んでいけるわけです。つまり、人々は寺の提供している精神的世界を崇めているわけですから、その寺を保護することによって、領主が人々を間接的にせよ認め、保護していることをデモンストレーションしていることになる。

  こういうメカニズムを通じて、新しい領主と農民や商工民との一体感というようなものが作り出されていくわけです。いわゆる運命共同体みたいなものが出来上がる。それが戦国時代に形成された国人領主たちの世界だったのではないでしょうか。
さて、毛利氏の居城郡山城は、毛利元就が入城する頃は、本城と呼ばれている郡山の尾根の一部だけを城塞化していたもので、郡山山中には当時すでに、万願寺や清神社があって、山岳信仰などの対象として長く崇められていたわけです。

  毛利元就が郡山全体を城塞化していく段階で、満願寺や清神社を郡山城の内に取り込んでいきます。つまり、万願寺や清神社が元就によって郡山城に呼び込まれたのではなく、逆に人々の信仰の対象としての万願寺や清神社を郡山城という支配者のシンボルの内に取り込むことによって、支配者の居城としての郡山城を人々に認めさせていったわけです。

  毛利元就が幸松丸のあとをうけて、毛利本家の当主として猿掛城から郡山城へ入城する日取りが言い渡されたのも、万願寺住職からです。これなど万願寺が毛利家の権威を越えて、ある意味で神聖な権威を持っていた証拠です。

  毛利元就が安芸国の小領主から中国地方の戦国大名へ成長すると、あちこちで在地の寺社へ寄進したり、再建したりして手厚く保護していますが、この背景にあるのも、単に元就が信心深い人柄だっただけではなく、さきに述べた領土経営の観点からの面が強いと思われます。

 
 
 
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