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今に残る外城制度の町並み 出水 |
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出水の麓は、薩摩藩最大の規模を誇る麓です。出水の地は、島津氏の一族である《薩州家》の領地として長い間治められていましたが、薩州家の断絶によって1593年から1599年に至るまでは天領として豊臣政権の下に収公されますが、1599年になると再び島津氏の領土として復帰します。 島津家久は出水の初代地頭として本田正親を任命し、出水の麓整備に当たらせます。 出水は、肥後への押さえの場所として、薩摩藩にとっては特に重要な拠点として整備し、薩摩藩の中でも最大規模、最強の武士団の居住地として位置づけられたようです。 薩摩藩の外城規模は、大郷、中郷、小郷と居住する武士たちの戸数によって大きく3つに区分されますが、出水の郷は、大郷の麓で1000戸前後の規模になります。 《出水兵児》(いずみへこ)と呼ばれる最強の武士団が作られるわけですが、その伝統は出水の第三代地頭に任命された山田有栄が基盤を作り出したと言ってもいいと思います。 山田有栄は、関が原に参陣した島津では数少ない武将の一人です。島津豊久の陣の右翼に配し、豊久より先に敵陣に突入したと伝えられています。豊久の姿を見失い、その後義弘に従い、関が原を切り抜けて、薩摩へ帰還した数少ない武将です。 その彼がモットーとしたことが、平時でも常に体を鍛え常に戦闘できる態勢を維持せよ、ということです。これは《山坂達者》という薩摩独特の気風ですが、関が原という稀有の戦いを生き抜いた生え抜きの武将が見本となった出水の武士たちには、《山坂達者》はひときわリアリティーがあったものと思われます。 |
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