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観光産業発展のために忘れてはならないこと

 わが国では遅まきにも 2008年10月観光庁なる役所が立ち上がり、日本を訪れる外国人観光客を平成32年までに年間2000万人に増加させると言っております。とりあえず平成22年までに年間1000万人の外国人観光客を目標設定しているようです。因みに観光客世界一を誇るフランスの場合、外国からの観光客数は2008年は前年度比6%減で8000万人です。フランスという文化が人々を吸引する力がどんなにあることがよくわかる例です。文化は立派な産業であることを痛感する数字です。
 
 高度経済成長を推進してきた加工貿易型経済推進が収束しつつある現在、産業構造が変化を迫られている中で、観光産業が次の産業として注目を浴びてきているのだろうと思います。歴史が好きで、旅行も好きな私のような人間にとっては、歓迎すべきことではありますが、ひとつだけ最近のブームに警鐘を鳴らしておきたいことがあります。それは、観光産業を国家の行く末を支えていくひとつの産業に育てていくつもりがあるならば、次世代を担う子供たちに対する歴史教育をおろそかにするなと言うことです。これは何も日本人としての思想を形成させよというようなレベルの問題ではなく、純粋に知的に人間の行いの集積である歴史というものに対して好奇心を育てるような教育をおろそかにしておけば、その付けは必ず未来の世代が引き受けざるを得ないとということから言うわけです。
 
 私が忘れられない経験がありまして、ある高校生から、『みんな西郷、西郷というけれど、西郷ってなんで有名なの、西郷が何をしたというのか』という質問を浴びせかけられたときのショックはかなりのものでした。 確かに西郷隆盛なんぞ知らなくても、何不自由なくご飯は食えるし、楽しい生活はできるのかも知れません。しかしこの高校生のような日本人に、観光という商品を消費してくれる消費者となれと言えるでしょうか。産業というのは、そのサービスを消費してくれる消費者がいてこそ成立するものです。歴史や地理にまったく関心がなく、そういう状態に置かれた人々が、将来の観光産業を支えてくれる潜在的なお客様になりえるはずがありえません。現在の若者たちの、理科離れのニュースは大々的に報道され、日本の将来危うしと取上げられるようですが、私に言わせれば、いわゆる若者の《人文科学系》に対する知的水準の低下は、眼を覆いたくなるほどで、その事実は大学関係者の間では十分承知されているはずです。このような事態を《大学の崩壊》とか《教養の崩壊》と呼ぶ人々もいます。教養の崩壊によって大学での講義が成立しないレベルにまで来ているはずで、高校での世界史の必修化への大学関係者からの要望の背景にはそういう事実があるからです。宗教改革、フランス革命、アメリカ独立がいつごろ起きた歴史的事件なのか知らないどころか、まともに日本の都道府県も言えなかったり、世界の主要国も言えない有様です。われわれ人類がこれまで何をしてきたのか、われわれがどうして今ここでこのようなことをしているのか、その経緯つまり人間の歴史を漠然とわからない状態になっています。このような人々が大人になって旅行するでしょうか。彼らの意識は内向的になってきています。未知なる世界に対する好奇心が生まれてこないので、地元で育ち、地元から大学に通い、地元で両親と暮らす、そういう生活パターンを取りつつあります。世界は数千年かけ、私たちの世界を地球規模にまで拡大してきたというのに、たどり着いたところは、弥生時代みたいに狭い生活空間だったという笑えないジョークになりつつあります。
 
 旅行とかというものは、外の世界に対する好奇心から始ります。未知なる物への好奇心、そういうものがない人々は、伊勢参りもしなければ、巡礼もしないし、世界遺産めぐりにも関心はないでしょうし、結果として観光産業は、長い眼で見れば成長はストップするのは予想されます。
 よい例が、現在の自動車が若者たちに売れなくなってきているという事実です。私も自動車大好き人間で、若いときは三度の飯より自動車の運転が好きでした。運転してみたい自動車がありました。運転して楽しい自動車がありました。しかしすべて過去形になりました。現在これといって乗りたい国産車などありません。自動車が若者たちに売れなくなった最大の要因は、自動車の魅力がないからで、そんなものに数百万も使う気になれないからです。そして自動車を魅力のない商品に貶めてきた最大の原因は、作る側の思想の欠落です。この傾向は最近の日本のもの作り全般に感じられるようになりました。デジタルカメラ、パソコンなど迅速に新モデルを市場に投入できるかがビジネスの勝敗を決めるといわれていますが、そういうビジネススタイルから作り出されてくる製品すべてに、同じ宿命が待ち受けているように思われます。めまぐるしいモデルチェンジ、次々に市場投入される新車、運転するのが楽にするようにメカニズムのてんこ盛り、シャーシーとエンジンはほぼ同じで外装だけ着せ替えたような新モデルだけを生産することだけに努力を払い、自動車はエキサイティングな道具であるという思想を欠き、持続的に自動車を支えてくれるユーザーを教育してこなかった付けが現在の車離れに拍車をかけていると思います。
 
 車に限らず人間と道具の関係というのは、単なる経済的コストだけで評価されるべきものではなく、文化的意味合い、もっと深いところでは人としての存在に関わる哲学的な問題であることを理解できないので、道具の中に思想が看取できなくなってきています。それまで人のイデアの中にあったイメージを人間の手によってデザインしていたものが、CAD設計によるパッチワーク的な作業に変わり始めます。 昨今若者たちのコピペ文化をどうのこうの言うようになりましたが、それはすでに数十年前から工業デザインの分野で始まっていたことです。誰が現在の若者たちのコピペ文化を非難する資格があるでしょうか。道具がヒトと言う動物にとっていかなる深い意味をもっているかを昔の技術者たちは、理系であれ若いときに哲学思想に触れていますから、知らず知らずにわかっていたわけで、そういう暗黙知の上にもの作りに励んできたわけです。その教養の崩壊が始まり、何やらエンジニアリング的思想だけが進化して、現在の日本のもの作りへと変化してきていると思われます。道具とは人間にとって一面では自身の延長ですから、人間の世界にしかフェティズムは発生しません。中年ライダーたちにとってのバイクや往年の名車への愛着は、広い意味でのフェティズムです。鉄道マニアにとっての機関車もそうです。ブランド現象も一面ではそうです。モノの中にイデアを感じることが人間にはできるからです。このように道具について考えることができるのも、人間とは何かというような思想的な問題にふれてきたからです。それが長いこと日本の伝統でもありました。そして暗黙知として受け継がれてきたわけです。初老のエンジニアが最近はコンピュータですべてやるから面白くないということを耳にしたことがありましたが、日本が長いこと伝統知としてきたものは叩き上げの技術者の中にもあったのです。
 
 かくして車という道具が所有するに楽しく、運転していて楽しい道具であることをやめた瞬間から、若者たちにとって都市部での移動はバスや電車の方がいいということになります。また老齢化という点でも、今後鉄道のような公共交通機関へのシフトがかなり急速に起こっていくだろうと思われます。高速道路にしても、自動制御装置付の巡航スタイルへシフトしていけば、そもそもマイカーなど苦労して動かすこと自体、負担以外のなにものでもなくなりそうです。2055年には日本の総人口のうち80歳当たりの人口がもっとも多い人々になりますが、そのころ高速道路をスイスイ長時間運転していく80代の老人がどれほどいるでしょうか。観光の移動手段も車から公共交通機関にシフトいくことは予想できます。ですから、自動車が社会のメジャーな移動手段であることは必ず収束します。
 
 話を観光産業に戻しますと、現在各地へ行って気がつくことは、現在の観光産業の主力消費者は、熟年や老人の人々だということです。この世代はさまざまなものに関心があり、行動力もありますから、元気です。しかし今から30年後の日本の状態を考えますと、とても今の若者たちが、現在の熟年老人たちと同じくらい歴史地理に関心があるかとなると、とてもそんなことはないだろうと推測できるのです。それは現在の若者たちの知的関心の広がりの現状からごく自然に推測しうることです。動かなくなった世代を対象に観光産業は衰退するしかないだろうと思われます。自動車産業が数十年繁栄を謳歌し、今後徐々に衰退していくように、産業を支え続けてくれる世代を育てないことには、その産業に未来はないということ、それが自動車産業の斜陽化から私たちが学ぶべきことではないかと思います。物事には始まりがあり、終わりがくるということを知るということ、歴史をたしなむ意味合いもそこにあるような気がします。

 
 
 




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