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三原城   広島県三原市 




 三原城は、小早川隆景が築城した水軍を利用する形で縄張りした城です。
 小早川隆景は、毛利元就の三男で、現在の広島県竹原市から三原市一帯にかけて勢力を有していた国人領主小早川氏の養子となり、山陰方面の吉川氏と並んで、毛利両川体制の一翼を担った戦国時代後期の名将である。
  特に織田軍との東部戦線に対峙し、足利義昭や織田軍との外交交渉を担当し、両川の一翼、吉川元春亡き後は、当主で甥の輝元を助け、毛利氏の支柱として生涯を本家の毛利氏存続と安泰のために生き抜いた。
 
 豊臣政権下では、輝元の陪臣から、秀吉の直臣として位置づけられ、当主輝元と同格の戦国大名となり、豊臣政権下で五大老の一人として組み込まれた。 しかし隆景の思惑は、あくまで本家毛利家の安泰であり、輝元の補佐であり続けた。秀吉から与えられた筑前、筑後と肥前の一部を養子の小早川秀秋に譲ると、小早川譜代の家臣を引き連れ、三原の地にとっとと引っ込んでしまったのである。しかしそのわずか2年後に急逝する。




 三原城が築城された正確な時期は明確でないが、隆景が新高山城に在城していた1553年頃、家臣に三原要害に在番を申しつけていることから、すでにこの時期には、瀬戸内海への出入り口として拠点を構えていたと思われる。  本格的に三原城とその城下町を整えた時期は、秀吉との高松城攻め講和が成立したあとの1582年頃と思われる。  この城が名城といわれる由縁は、瀬戸内海と融合した景観と機能をもっていた城で、当時は、『浮城』と呼ばれていた。  もともと沼田川の河口口の浅瀬で、島々が展開していたものを人工的に結びつけて、城郭化したもので、瀬戸内水軍を擁していた小早川氏にとっては、まさしく海の要塞と呼ぶにふさわしい造りであったと言われる。


三原城を中心として、その周囲には、沼田地域にあった小早川氏関連の寺院の数々を三原に移築し、寺院が三原城の背後を守るかのように配置されている。その中のひとつ、宗光寺の山門は新高山城の大手門が移築されているが、ここは徳川家康が朝鮮出兵の際、三原で宿泊したところでもある。後年一国一城令によって、戦国時代の名城を悉く破却させた家康だが、三原城を破却させなかったのは、この時の出来事と無関係ではあるまい。(春日の局もこの城に世話になったことがある)それほど、三原城の景観は、瀬戸内海を借景として、名城と呼ぶにふさわしい構造物であったと思われる。いまは、市街地と鉄道の構内にほとんど姿を変えられ、訪れる人もほとんどなく、無残な姿と化している。完存していれば、世界遺産クラスと思われるが。





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