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大専坊   山口県防府市


大専坊は、防府天満宮の正面に位置する社坊の一つである。
  防府天満宮は、太宰府の天満宮と並ぶ大社で、ご存じのように菅原道真をまつる神社である。
  山口県防府市に、菅原道真をまつる天満宮の大社があるのは、菅原道真が太宰府へ流される途中、この防府の地にしばらく逗留していたからである。この縁で防府市に菅原道真をまつる天満宮があるわけだ。
  話は変わって、冒頭の社坊の一つに過ぎないこの大専坊が、毛利元就と関りをなぜもっているのかということだが、それは、毛利元就が厳島合戦で陶晴賢を破り、防長攻略を完成するまでの間、この社坊に陣を置いたことにある。
  毛利元就は、防長攻略の最初の関門となった、須々沼城(山口県徳山市)を二年がかりで落とし、ついで陶晴賢の遺臣らの籠る富田若山城(山口県新南陽市)を落とすと、いよいよ大内義長を倒すべく、山口へ侵攻することになる。
  大内義長らは、山口の高嶺山城を本格的に城塞化して籠るが、防戦難しきことを悟り、下関の勝山城に退き最後の決戦に備える。
  毛利元就は、大内義長とそれに従う譜代重臣の内藤隆世を攻めるべく、兵を山口に進めるが、元就自身は、ここ大専坊の陣から指揮をとった。
  内藤隆世は、1557年4月3日に自刃、大内義長は翌4日に切腹を迫られ、やむなく自刃。
  毛利元就は、この大専坊で防長制圧が完了したことを知ることになる。
  この瞬間から、安芸の小領主の身分から名実ともに戦国大名になったわけだが、その事実をもっともよく自覚していたのは元就自身であった。
  元就は、このころ、いままでの国人領主的な支配体制から、いっきに拡大した領土を支配していくための新しい方向性を模索したと思われ、あの有名な『三矢訓戒状』をしたためたのは、この防府の地である。
  この元就のグランドプランによって、その後の毛利両川体制が動きだすことになるわけである。
 
 
 
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