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島津義久国分館跡     鹿児島県霧島市




 国分館跡は、島津義久が1604年から79歳で没する1611年までを過ごした館跡です。義久亡き後は、義久の三女亀寿が晩年を過ごした館でもあります。義久の館というより、実は娘亀寿のために築いた館だったようです。  

 亀寿は、義久の三女として生まれますが、義久に男子が居なかったことから、弟義弘の次男久保(嫡男は早世)に嫁がせ、次の当主にと路線を敷きますが、久保が朝鮮に渡海中、彼の地で亡くなります。そのあと、義弘の三男忠恒(後の家久)と婚姻を挙げさせ、島津家を継がせようとします。  忠恒は、関ヶ原合戦の後、家康から一字を貰い受け、家久と改名し、名実ともに島津家当主となります。しかし、二人の関係はあまり中むつまじいというもののようでもなかったようです。二人の間にはついに子は出来ませんでした。しかし当時まだ義久は健在でしたので、前当主である義久の手前、正室の亀寿との関係を解消することなど出来るはずもなく、形だけの正室であったようです。家久は鹿児島の鶴丸城に亀寿は、父義久の近くに住んでいます。  

 父義久は、そんな亀寿を不憫に思ったのではないでしょうか。国分にこの館を亀寿のために建てたと言います。  豊臣政権に組み込まれて以来、島津家は、義久と弟義弘との二頭体制になり、義久は薩摩から大隅の地へと隠遁せざるを得なくなります。富熊城、そしてこの国分館は、薩摩から大隅へとシフトしていった義久の地位の変遷を物語っています。  

 国分は、その後 薩摩の有力な外城城下町として発展していきます。今でも当時の町割りが残っていますが、城下町らしさを醸し出す町並みは見えません。わずかに 国分館跡の敷地であった現在の国分高校の周囲に往事の面影が感じられるだけです。  館跡の背後には 、城山があり、その昔ハヤト族か立て籠もったと言われています。城山からは錦江湾から鹿児島市内まで一望できます。








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