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上月城跡   兵庫県上月町






上月城は、もともとはこの地の国人領主上月氏が鎌倉時代末期に築城したものであるが、室町時代から戦国時代になり、この地に勢力を拡大してきた赤名氏、赤松氏と城主が入れ替わる。
 この城がその名を天下に知られるようになったのは、織田信長が毛利攻略のための拠点として、羽柴秀吉を送り込んだ時であった。
1577年、織田軍を率いる羽柴秀吉は、時の城主であった赤松氏を包囲し落城させる。
 秀吉は、落としたこの城に尼子勝久と山中鹿之助を城将としてこめ置いた。山中鹿之助は念願の尼子氏再興に燃えてのことであった。
 しかし上洛の計画をもっていた毛利輝元は、1578年毛利軍を総結集して上月城を包囲する。秀吉軍は救援しようにも、毛利軍の堅牢な包囲網に阻まれた。そうこうするうちに背後の三木城の別所長治が毛利と内通し、織田軍を裏切る動きに出たため、秀吉軍は織田信長の命によって上月城を見捨て、三木城攻略に取りかかることになる。
 孤立した上月城は1578年7月5日毛利軍に開城。尼子勝久は上月城山麓で自刃して果てたと語り伝えられている。尼子勝久の墓は上月城の麓にひっそりとたたずんでいる。
 山中鹿之助は捕虜となり、毛利輝元がいる備中松山城への護送中、高梁川の阿井の渡し場で殺される。尼子氏再興の夢が露と消えうせた瞬間であった。
 写真で、上月城手前の川が作用川で、この川を境に秀吉軍と毛利軍が対峙していた。






中国自動車道の作用インターで降り、国道373号線を赤穂方面に南下します。途中で国道179号線との合流地点・上月三叉路を通過するとすぐに、国道沿いに大きな史跡案内板があります。そこが上月城跡です。
山麓から城跡本丸跡までは15分ほどで辿りつけます。山麓には尼子氏追悼の碑や上月城戦没者の碑、上月氏追悼の碑など史跡があります。

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