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No.2 会津屋八衛門密貿易の巻 





 山陰の鎮城浜田城の本丸跡から日本海に面した松原湾にひときわ大きな石碑が屹立しているのが遠望できる。  この大きな碑は、会津屋八衛門の功績と遺徳を偲ぶために建立された碑である。  会津屋八衛門とはいったい何者なのか。   会津屋八衛門の父は清助といって、浜田で藩御用達の廻船問屋を営んでいた。江戸時代には、浜田は北前船、九州、四国はては駿河あたりからの多くの船が出入りし、交易基地として栄えていた。 浜田藩は海外線が長く、そのおかけで交易ばかりでなく、豊かな海産物のおかけで、実質石高は表石高の倍以上はあったと言われている。  

 1819年秋、清助は『阿呆丸』と呼ばれた2500石積みの巨船で江戸に向かった。しかし紀州灘沖で時化に合い、南方方面に漂流してしまうことになる。   たまたまオランダ船に助けられて、清助はいっしょに東南アジア諸国を回遊して長崎に帰り着き、幕府に知られないよう隠密裏に故郷浜田に帰り着いた。三年目のことである。清助は東南アジアで見聞したことをこと有るごとに家族や近隣の人々に話したらしいが、藩は清助が国禁を犯して海外へ出たことを隠すため、清助のことを狂人扱いし不問に付すことにした。  

 八衛門は父の話を聞いて、ひそかに海外にでることを計画した。  まず八衛門が目をつけたのが、隣の朝鮮の竹島(ウツリョウ島)である。 八衛門はこの計画を浜田藩勘上方の橋本三兵衛に打ち明け、そこから家老岡田頼母に了解をとりつけ、浜田藩を抱き込むことにした。  浜田藩は長年の借財で藩の財政が行き詰まり、危機状態にあったことから、八衛門の密貿易計画に荷担することにした。家老岡田頼母は八衛門の密貿易を黙認することにした。   竹島から海産物、木材などを輸入し、日本諸国に売りさばき利益を上げる。しかし密貿易の旨味をしった八衛門や浜田藩は、竹島からしだいに朝鮮本土、清国、さらには台湾やルソン島にまで交易範囲を広げていった。膨大な利益を上げたようである。  

 あまりの浜田港のにぎわいに、幕府も疑いをもったのだろうと思う。薩摩藩の密貿易探索のために浜田に立ち寄った隠密の間宮林蔵が探索を開始した。あれこれ探索し密貿易の確証をつかんだ間宮林蔵は、これを大阪西町奉行に報告し、幕府の知るところとなる。  かくして浜田藩を巻き込んだ密貿易事件が発覚し、 会津屋八衛門と勘上方の橋本三兵衛は死罪となり、家老岡田頼母は責任をとって切腹。  藩主の松平康任は永蟄居、息子の松平康爵は奥州棚倉に移封とされた。  

 日本海を眺めるように屹立している会津屋八衛門の記念碑は、日本海に生きる浜田の人々にとって、いまでも英雄であることを語りかけている。  日本海−それは明治までの長い日本の歴史の中で、日本の表玄関だったのであり、日本海を通して私たち日本は、さまざまな文化や人々を摂取してきたのである。 日本海には、そういう歴史的重みがある。会津屋八衛門の碑を見上げて、ふと私はそんなことを思った。




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