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吉川広家  山口県岩国市 

写真は岩国藩初代藩主吉川広家の墓です。岩国の吉川氏墓所の一番高いところにあり、子孫たちを見下ろすようかのように建てられています。
 吉川広家は毛利元就の次男吉川元春の三男として誕生します。本来ならば吉川家を継ぐ運命にはなかったわけです。
 嫡男は元長で父元春とわずか18歳しか違わず、息子として、また元春の片腕として父元春と常に戦場にありました。次男元氏は他家に養子に出されますが、毛利氏が長州へ移封されたあとは、《阿川毛利氏》として毛利一門に加えられます。さらに四男がいたのですが、幼くして他界したため、三男広家が末っ子として、元春夫妻にとっては、老後の楽しみとして手元に置かれ、かわいがられたようです。その分、手のかかる放蕩息子の一面もあったようです。元春夫妻が広家にあてて、作法から嗜みまで事細かに注意した手紙が残されていて、それを読みますと、現代の青年たちと共通する一青年の様子が伺われます。
 そんな広家がまっとうな武将として成長したのは、ひとえに父元春と母の薫陶の賜物と言えます。《元就の孫、元春の子》として振舞うように、というのが父元春の常々のモットーだったようです。
 《やんちゃ》な三男広家が、吉川家の家督を継ぐことになるのは、父元春が秀吉の命に従い渋々九州征伐に出陣したときです。元春は1582年、備中高松城攻防戦で実質秀吉の軍門に下った直後、家督を嫡男元長に譲ります。独立大名としてやってきた元春にすれば、秀吉の配下に下ることはプライドが許さなかったと思われます。
 秀吉からの度々の出陣要請を断り続けていた元春ですが、ついに九州征伐の時だけは、輝元、隆景からの依頼もあり、断りきれず重い腰を上げて九州へ出陣します。しかしこの時すでに元春は病に冒されていました。九州の小倉城に滞陣していたとき、元春は急死します。  
 父元春の訃報を日向の陣中で聴いた元長と広家ですが、元長は父元春が月山富田城攻撃のとき元就訃報にもかかわらず、戦いを続行したことに見習い、広家だけを小倉に向かわせ、本人は島津氏と対峙を続けます。しかしそんな元長も父元春の病死からわずか半年後に急死します。元長の遺言に従い、ここに三男広家が吉川家の家督を継ぐことになります。
 吉川元長、小早川隆景と毛利氏一族が次々に他界すると、毛利本家当主輝元にとっては、吉川広家は頼むべき支柱になります。毛利両川の一方の小早川家の方は、隆景が他界すると、それまで隆景によって抑えられていた安国寺恵瓊の発言力が高まり、輝元の動向は、広家と安国寺恵瓊にかかっていたと言ってもいいと思います。
  関が原の直前、吉川広家は天下の形勢はすでに徳川家康にありと見ており、元就の遺言通り天下を願わないことに従うことを表明。しかし安国寺恵瓊は石田三成と組んで毛利輝元を広島から大阪城に引き出し、豊臣軍の柱に据えようと画策します。大阪から広島の輝元に大阪に上るように密使が出されたことを知った広家は、あわてて広島に使いを送りますが、一歩遅く、入れ違いに輝元が大阪へと上ってきます。
 次に広家が打った手は、東軍の黒田長政あてに内通の意の密使を送り、西軍を裏切り、東軍に味方することを通告します。この広家の東軍内通によって、関が原の戦いは、戦わずして勝敗は決まったようなものです。
 広家は、毛利軍の本体を率いる毛利秀元、安国寺軍の前に陣を取り、両軍を動かさないようにします。広家の軍が動かなければ毛利軍本体は動けなかったからです。
 戦後、広家は早速家康の本陣に勝利を祝う使者を派遣し、毛利本家の領土保全に勤めます。しかし家康の戦後処理は過酷なものでした。広家の内通による約束は反故にされ、輝元は領土没収、かわりに広家に1,2カ国を与えるというものでした。あわてたのは、広家です。良かれと思ってしたことが、本家を潰すことになろうとは。広家は必死の談判を重ねて、輝元に自分がもらうことになる1,2カ国を与えてもらえるようにします。広家の熱意が通じて、輝元には防長2カ国が、広家には岩国周辺で3万石が与えられます。改めて輝元から岩国周辺で3万石を分知してもらい、本家の面目を保ちます。
 広家は、出雲の14万石から大リストラしなければならず、家臣団を出雲に帰参させ解散。希望するものだけを岩国に同行させます。そうして岩国の城下町づくりに取り掛かります。しかし7年の歳月をかけて完成させた岩国城も一国一城令によってすぐに破却されます。
 江戸時代を通じて、吉川家は藩としての正式認証は幕末までされませんでした。本家毛利氏の家中の中には、広家の行動に対する非難が後々まで尾を引いていたためです。しかし幕府のほうでは、藩としての待遇をしていたようです。
 広家が築いた岩国城は現在復元され、岩国の城下町を見下ろしています。三代広嘉が建設した《錦帯橋》はすっかり岩国の観光の目玉になっています。小さい一角ですが、静かな城下町のたたずまいは、今も私たちの心を落ち着かせてくれます。岩国の町を歩くと、きかん坊の三男広家の情熱がどこからとともなく語りかけてくれるような気がします。


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