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渡辺七人塚  広島県向原町


 写真は広島県向原町にある《渡辺七人塚》と呼ばれるものです。
 七人塚と呼ばれていますが、現在は五基しか残っていません。
 この渡辺七人塚の由来は、毛利元就が毛利家の家督を継ぐ際に起きた悲劇に由来します。
 毛利元就は毛利弘元の次男として誕生していますから、本来は毛利家当主にはなれない運命だったわけです。しかし、いろいろな偶然(?)が重なって、気がつけば毛利家当主にと推される羽目になります。元就の兄興元が早世し、その跡を受けた興元の嫡男幸松丸も9歳にて他界。そこで元就の登場になるわけですが、事はそう簡単には進みませんでした。
 
はじめ元就を当主にと、毛利氏一族の志道広良を中心にして、家臣が元就家督相続を元就に打診します。そのような形で元就の郡山城入城の段取りが決まりかけている矢先に、はじめのうちは賛同していた渡辺勝(すぐる)らは、元就家督相続の直後から、元就を暗殺し、元就の異母弟の元綱を擁立しようとする動きを示します。この動きをいち早く察知した元就は、先手を打って、渡辺勝、毛利一族の坂広秀を襲撃します。
 この渡辺七人塚は、そのとき、渡辺氏の居城長見山城に立て篭もって応戦したサムライたちの墓と思われます。渡辺勝の長子渡辺通は、その時、父勝の夫人が山内氏の乳母の娘であった縁で、山内直通のところに走り庇護されます。その後山内直通のとりなしで、渡辺通は許されて、毛利家家臣に復帰します。

 その渡辺通、1543年出雲遠征に失敗した敗走中に、元就、隆元親子を追ってから、身を犠牲にして逃がしたことは有名な話です。このときの通の忠節に感動した元就は、毛利家の続く限り、渡辺の家は見捨てないと誓ったといわれています。通の嫡男渡辺長(はじめ)は毛利輝元とともに秀吉の大阪城に上がり、豊臣の姓と、従五位下の官位を授けられています。

 江戸時代の長州藩では、正月の時の甲冑賀儀の際には、まず渡辺通の子孫が先頭である名誉に与ったと言われています。1543年の石見路での渡辺通の犠牲がなければ毛利元就親子は、無事郡山城に帰還することはできなかったかも知れません。元就もいたく感心したのでしょう。
 この七人塚には、そんな歴史が秘められているのです。
 
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