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加治木  鹿児島県加治木町


加治木の麓は、島津義弘がこの地に館を構えことに始まります。写真左が義弘の館跡です。現在は加治木高校と蛇城小学校および護国神社の敷地に当たります。
 豊臣政権によって、それまでの島津氏当主の義久にかわって、弟の義弘が豊臣政権とのパイプ役となり、秀吉によって兄義久には大隅、弟義弘には薩摩を与え、島津氏の力を削ぐ作戦に出ます。
 これがきっかけで、島津氏の後継者問題は、義久に男子がなかったことで、義久派と義弘派との確執が生まれます。
 当時は、義弘の加治木とその息子家久の鹿児島、そして義久の隠居先国分とに、島津氏の権力は分散されている様相を呈していたと思われます。
 義弘の息子家久が次の島津家当主となることで、義弘とその流れを汲む加治木島津家が島津宗家の重要な位置を占める結果となります。25代当主島津重豪はここ加治木島津家出身で、彼の娘が11台将軍家斉の御台所となり、ここに天璋院篤姫へ繋がっていく伏線ができるのです。すべてはここ加治木島津家から始まっているのです。


麓としての規模は出水に次ぐ規模で、島津一門筆頭格の加治木島津家の領地だけあって、現在でも国道から一歩裏手に足を踏み込むと写真のように、狭い昔ながらの町割りを散策することができます。
 しかしながら、現在史跡に関しては、ほったらかし状態という感じがします。町を散策するためにも、もっと史跡案内板など充実させてほしいものです。もっともこんな住宅地を散策する外部者など私くらいかもしれません。《不審者に気をつけろ》という看板だけが妙に目を引きました。






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