石見の高橋氏、安芸の武田氏のあと、毛利氏の前に強敵が現れることになる。山陰の覇者尼子経久である。
毛利元就が毛利家の家督を継ぐ1523年の6月、山陰の覇者尼子経久は、瀬戸内を目指して、ついに安芸国深く侵入してきた。ターゲットは、大内氏の安芸国西部の拠点鏡山城であった。ここを落とせば安芸国における大内氏の勢力を駆逐でき、さらに瀬戸内へ進出できる。実際鏡山城を落として、蒲刈島の多賀谷氏の丸谷城まで攻めている。これで尼子経久は、大内氏に取って代わって、備後の山内氏から鏡山城、蒲刈島を通過するラインで安芸国を分断することに成功する。
吉川氏、毛利氏も尼子氏の配下で出陣する。元就は幼少の幸松丸の後見人として、奮戦し、得意の謀略で敵将を騙して城を落とすが、経久に冷たくあしらわれ、戦功もほんんど与えられなかった。
この屈辱が、尼子氏からの離反を決定付けた。その年7月に幸松丸が急逝すると、念願の毛利家家督を継ぎ、尼子経久と通じて家督相続反対をとなえた、桂広澄、渡辺格、異母弟の元綱などを消し去り、尼子氏との決別を示した。
この時から、毛利元就の中国制覇のための勢力拡張のための布石が打たれ始める。つまり盟約関係や血縁関係による、周囲の国人領主の取り込みが次々と行われていくことになる。
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