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地図で見る・毛利元就中国制覇への道のり・その4
毛利元就家督相続直後、高橋氏を滅亡さす



 1523年念願の毛利家家督を継いだ、元就がもっとも懸案としていたのは、石見の豪族高橋氏の勢力を毛利家内部から排除することであった。
 兄興元代には、高橋氏が毛利氏に正室を送りこんでいて、何かと毛利家家政にまで干渉してくるほどの勢力を有していた。吉田猿掛城数キロの距離のところにまで高橋氏の支城松尾城などを築いて、毛利氏を監視していた。
 家督を継いだ元就にとって、この高橋氏の存在は目の上のタンコブのようなものだったと思われ、家督を継ぐと、早速高橋氏退治に動き出す。
 高橋久光亡き後の高橋氏のお家の内部分裂を利用して、当主の叔父をたぶらかし、相戦わせまんまと高橋氏を一族滅ぼしている。
 このことによって、石見から安芸北部にかけて広大な領地を有していた高橋氏の遺領を受け継ぐことで、いっきに毛利氏の領土は拡大していく。
  高橋氏から奪った領地のうち、石見の二つ山城は、高橋久光によって追い出されていた元々の城主出羽氏に与え、取り込んでいく。本拠藤掛城のあった本拠地の方には、志道広良の弟通良を配して、琵琶甲城を構え石見への布石とした。以後在地名を名乗り口羽氏となる。輝元の代に毛利氏中枢の家系となる。
 ちなみに、兄興元の正室として嫁いでいた正室のその後の消息は詳らかでない。また、元就を我が子のように養育してくれたと回想している『お杉の大方殿』の出自も高橋氏であるようであるが、高橋氏を滅ぼした理由は、もっと複雑な背景があったかも知れない。

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