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厳島合戦の検証―厳島の歴史
厳島信仰の起こり
 厳島の祭神は、福岡県宗像郡の宗像神社に祭られている市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命の三女神であるが、このような人格神が祭られるようになったのは、かなり後のこととされている。また福岡県宗像神社の神様がなぜ広島の宮島の神様になっているのかということについては、別の機会にすることとします。

 そもそもは、この島の秀麗な山々、山頂付近に点在する巨大な岩が露出する勇姿そのものに対する素朴な山岳信仰が、厳島信仰の始まりとされている。

 ここで厳島合戦を理解するための大切なポイントのひとつは、この島全体が、『いつく祀る島』、信仰の対象とされていることである。 したがって、当初この島の内部には、人が定住したり、入ることは許されない空間だったということである。
この歴史的事実を頭の隅において置いて下さい。陶晴賢がなぜ厳島に渡海したのか、見えてきます。

 かくて島の内部には、現在の宮島から想像することは難しいが、人間もいなかったし、神殿などはなかったのである。この島全体が神の具現であるため、人々は対岸に神殿を作り、そこから厳島を礼拝していたのである。

 その対岸の神殿こそ、対岸の地御前にいまも鎮座している『地御前神社』のあるところであるとされている。事後前神社そのものは、平清盛による厳島神社造営の際、厳島神社の外宮として整備されたものだが、それはもともとこの地が厳島を信仰する人々によって古来より崇められてきたところであるからである。したがって、厳島の外宮が地御前神社、内宮(本殿)が現在の厳島神社という関係にある。

 さらに興味深いことは、厳島の頂上の弥山(みせん)、厳島神殿、外宮の地御前神社は明らかに意図的な直線上に配置されていることである。そして、弥山から延びる直線は、どこへ向いているかといえば、地御前神社の北方にそびえている極楽寺である。
つまり、弥山、厳島神社、外宮の地御前神社、極楽寺は、明らかに意図的なラインの上に配置されているということ、そしてその方角は弥山山頂から北に向けられているということである。これは北極星信仰と結びついていると言える。
このレイラインは広島工業大学の坂田泉先生に発見されました

 このことからも分かるように、厳島とは、古代の人々にとって聖なる空間の中心地になっており、それを演出するために周囲の空間も聖なる演出を施されているということである。厳島とは、弥山、厳島神社、地御前神社、そして極楽寺の四点セットでひとつなのである。これから宮島を観光される方は、ぜひこの四点セットは訪ねてみてはいかがでしょうか。実は、厳島の外宮は、もうひとつ存在しているのであるが、それは後ほど触れる予定である。
 毛利元就は、厳島に渡海する前、この地御前神社で出陣式を行っているのである。彼はこの島の歴史的意味を十分に知り尽くしていたと言える。




豪族佐伯氏による厳島神社運営
 厳島が、どのようにして、古代の素朴な山岳信仰から脱皮して、厳島神社へと形を変えていったのかについて述べます。 その前に、厳島神社と並んで、この地方にはもう一つ重要な神社があります。それは廿日市市に所在している速谷神社です。広島バイパス道路のすぐ近くにあり、現在でも正月参拝客などで賑わう格式ある神社です、実は、この速谷神社というのは、大和時代から奈良時代にあっては、厳島神社より格が上の神社で、全国的に見ても、山陽道では4本の指に入るほどの格式の高い神社として知られていました。中央の朝廷による全国の神社の格式の中で、速谷神社は格別の取り扱いを受けていた神社だったわけです。
この速谷神社のご神体は、実は岩だということはあまり知られていませんが、これは、厳島の山岳信仰と合わせ考えても、この地方に定住していた古代の人々によって祭られていた山岳信仰の神社であることを推測させます。

 ですから、その始まりにおいては、厳島も速谷神社も同様に素朴な山岳信仰と結びついていたところと考えられるわけです。この地域に古代巨石文化を暗示するような遺跡が実は存在しているのです。
 
古代社会の速谷神社の威光に取って変わって、平安時代の頃になりますと、速谷神社が次第に影が薄くなるのに対して、厳島神社の方が勢いが付いてきますが、それはこの地方の豪族である佐伯氏の氏族的な祭神として保護されるようになったからです。
佐伯氏はそれまでの朝廷の手厚い保護を受けてきた速谷神社ではなく、厳島の方を氏族の神として選択したわけです。

 この佐伯氏という豪族の出自については曖昧ですが、『日本書紀』の中で触れられているように、佐伯部と関係があると推測されます。佐伯部とは、『日本武尊が神宮に献じた蝦夷の俘囚を安芸その他五国に分かち置いたのが佐伯部の祖である』というように、大和朝廷によって征服された蝦夷( 現在の東北地方)の人々を捕虜として捕ら え、それを全国的な土地開発のための労働力として各地に配置したものと考えられています。 そしその佐伯部を管轄する氏族が、大和朝廷の屈指の軍事的氏族であった大伴氏であったわけです。ですから、安芸のこの地方に配流されてきた佐伯部を管轄するために当然大伴氏も下ってくる。この地方の豪族佐伯氏とは、この大伴氏の一族だと考えられているわけです。
 現在の行政区では、佐伯郡佐伯町という行政区があり、廿日市はこの佐伯郡のなかに位置している市になりますが、周囲は佐伯郡と呼ばれています。
 しかし当時の佐伯郡は現在の太田川より西の地域を佐伯郡としたようで、かなり広範囲に渡ります。  現在広島市になっている西区や佐伯区、さらには安佐南区なども佐伯郡の中に含まれていたわけです。広島市安佐南区の緑井あたりは、昔は佐東町と呼ばれていた行政区でしたが、これは佐伯郡の東の果てという意味です。ですから、安芸国の守護職武田氏の居城銀山城や香川氏の八木城などもれっきと佐伯郡の中にあったことになります。
地図を広げて確認してみてください。中世の時代の行政区と現在の行政区とはかなり違うのがわかります。当時の状況をよりよく理解するためには、当時の状況を再現してみることが大切です。

 厳島神社が創建されたのは、推古天皇の時代で593年、佐伯氏の始祖と伝えられている佐伯鞍職が官奏を経て社殿を建てたことによると伝えてられています。それ以来、佐伯氏の手厚い保護を受け、この地方随一の神社として発展していくわけです。
 そしてこの佐伯氏と平清盛が結びつくことによって、現在の厳島神社の原形ができあがることになります。



 
平清盛による厳島神社運営
 現在の形で厳島神社を私たちが見ることができるようになったのは、平清盛によって造営されたことによるからです。この時内宮として厳島神社、外宮として地御前神社が豪華絢爛に造営されます。厳島神社が事実上誕生したときと言っても過言ではないかも知れません。
ところでその厳島神社と平清盛とがなぜ結びついたのでしょうか。

 今回はそのあたりの事情を説明したいと思います。
 平清盛が厳島を信仰するようになったきっかけは、ある高僧によるお告げがあり、厳島の造営を暗示されたことに始まると『平家物語』を始め、その他様々な本には説明されています。しかし実際には、清盛自身でない限りそんなことは今からわかろうはずがありません。
歴史学者の視点から見れば、清盛と西瀬戸内海との接点を挙げてありますが、それが妥当な線だと思われます。 西瀬戸内海と清盛の接点ではなく、実は清盛の数代前から平氏は、瀬戸内海一体へと進出してきています。平正盛、忠盛、清盛と三代に渡って平氏は、瀬戸内海と関りを持ちます。

 平氏が瀬戸内海と関りを持つようになったのは、藤原純友の乱に象徴されるように、古代社会の律令国家の瓦解に伴って、瀬戸内海地方、および北九州での乱暴狼藉、海賊の取り締まりに、平氏が挑発されるようになったことに始まります。
 ところが平氏も人の子ですから、権力欲があります。海賊を取り締まりながら、同時に海賊を手なずけ平氏の権勢の中に取り込んでいきます。平氏に素直に従わない海人を海賊と呼び、討伐の対象としたようです。瀬戸内海の土着の豪族たちも、時の権力の趨勢を見るには機敏で、平氏に荘園を寄進したりして、平氏の権勢の中に組み込まれていくわけです。
このようにして平氏は、瀬戸内海一円に勢力を扶植していったわけです。 このような実態は、すでに清盛の祖父にあたる正盛、忠盛の代にはすでに出来上がっていたようで、清盛は、その遺産を受け継いだだけです。 瀬戸内海に権力を扶植することで、一体何が平氏の権力の基盤となったのでしょうか。昆布や魚が瀬戸内海の富だと思われていると、『平家にあらずんば人にあらず』と言わしめた権勢を支えていた莫大な富の出所が見えてきません。 

 古代から中世にかけての、瀬戸内海の富とは何か。それは交易による富に尽きます。交易といっても、内海のものと海外との二つがあります。

 内海交易としては、塩です。これは莫大な富を産み出します。現代と違って、昔は塩は貴重な産物の一つです。 またあまり知られていませんが、古代社会から中世にかけては、瀬戸内海の島々には『牧』があります。牧とは、朝廷御用達の馬や牛を飼育するところです。現在の信州地方にも多くありますが、古代社会から中世にかけては、瀬戸内海の島々にも多くありました。貴族の西園寺家は長い間、南伊予地方に領地を保有し、基盤を置いていましたが、それはこの地方に多くの牧があり、これを押さえておくためだったと言われています。
 しかし瀬戸内海のもたらした富の一番は、大陸との交易による莫大な富に尽きます。清盛の日宋貿易は有名ですが、これはもともとこの地方の人々が行っていた利権を横取りしたものです。

  表向きは外国との交易は禁止されていますが、それはいつの世でも表向きのことで、海に暮らす人々やそういう人々と日々付き合っていた領主たちにとっては、国境線などないわけです。気軽に海を越えていく。そして向こうからも来る。これが当時の姿です。『気軽に』です。これも何やら遣唐使船や鑑真和尚などの話などで大変な難行だったようにイメージしていますが、海を知りつくしている『海人』にとっては自分の庭のようなものだったようです。
現在の愛媛県に八幡浜市というところがあります。九州からのフェリー航路として港町です。ここにはつい最近までアメリカまで密航していた人々がいたことが知られています。彼らの話によれば、自分の持ち船で40日もあれば確実にアメリカに渡れるそうです。往復80日、つまり二ヶ月半の旅程で、アメリカまで行き帰りができるということです。そういう感覚なのです。海に生きる人々にとっては。江戸時代にも盛んに行き来していたようです。知らないのは、幕府だけです。

 正盛、忠盛、清盛と瀬戸内海の海賊と接触することによって、そうした人々が日常生活の中で行っていた経済行為を、平家が掠め取った。しかも一門で独占したわけですから、それは莫大な富が転がり込んできたと思われます。
 例えば時代は下りますが、室町時代の細川氏と大内氏が争っていた遣明船の場合では、現在の価値に換算して、一隻の船で約20億円の利潤が生まれたといわれています。10隻仕立てて行くと、単純に計算して約200億円です。喧嘩もしたくなるというものです。
清盛が安芸守のころ、父忠盛の代理で高野山の大塔修復を一手に引き受け、6年がかりの大事業を果たしていますが、こうしたことができたのも、ひとえに瀬戸内海交易から上がる莫大な富があったからです。
 
 こうした平家の莫大な富に目をつけてきたのは、何も豪族たちばかりでなく、当時律令制度の瓦解による経済的衰退に困窮していた朝廷も平家と結びつくようになります。
ここに、清盛と朝廷との共通の利害が生まれ、平家一門が朝廷内部に深く食い込み、果ては娘を嫁がして天皇の外祖父となるわけです。平家一門の権勢は極致に達します。
清盛がなぜ厳島に目をつけるようになったか、以上の話でだいたい推測はつけていただけると思います。厳島というのは、昔から朝鮮、九州あたりからの航路の中で、船泊りとしての機能と、山岳信仰の対象としての祭礼的な意味を担った空間としての機能の二つがミックスしていったと考えられます。 

  つまり、交易の中継拠点と宗教的空間としての機能が厳島だったわけです。そこに目をつけた地元の豪族佐伯氏が厳島を氏神として祭る。  さらに、当時の佐伯氏の当主、佐伯景弘が清盛に取り入ることで、厳島神社を清盛が祭るようになります。
 佐伯氏は厳島の神主職として実質的なこの地方の権力者として基盤を固め、清盛は厳島神社を平家一門の神として現世的な出世の裏づけとして、ますます崇めていく。さらには天皇の外祖父として天皇はじめ上皇などにも参拝させ、さらには京都の公家たちも参拝しはじめ、国家的な神社として格付けしていきます。
 清盛は、記録に残っているだけで厳島に11回は参拝しています。後白河院、高倉上皇、安徳天皇も平家一門の権勢に押されて、厳島に参拝されています。当時天皇などが安芸の地方へ出向かれることはまず無く、わざわざ厳島まで出向かれたことが、いかに清盛の権勢がすさまじいものであったかを如実に物語っています。
 
 現在私たちが国宝として見ているきらびやかな姿は、当時の天皇をはじめ、京都の公家たちに対する清盛の精一杯のデモンストレーションだったのではないでしょうか。
 青い海に映える朱色の大鳥居、海に浮かぶ回廊、多くの若き巫女たちに歓待される日々、京都の人々も地方の片田舎でこの世の極楽浄土を垣間見たことであろうことは容易に推測できます。

 
藤原氏による厳島神社運営
 平安時代末期の平家全盛の時代には、厳島神社は、当時の厳島神社を実質的に支配していた豪族佐伯景弘が平清盛という中央政権と結びつくことによって、それまでローカルな信仰対象であった厳島神社が、一気に全国的な社格を有する神社となっていきます。 1185年3月壇ノ浦で平家一門は海の中に消えていくわけですが、この戦いに佐伯景弘は、当然平家側として参戦しています。佐伯景弘自信は、平家と運命を共にすることもなく生き残るわけですが、源氏の天下になれば、それまでさんざん清盛と一蓮托生になって権勢をはっていた彼の運命は、風前のともし火であったことは推測できます。

 しかし佐伯景弘という武将は、そうとう立ち回りのうまい人間だったと見えて、この人生最大の難局を無事乗り切るわけです。
その背景の一つには、朝廷が安徳天皇とともに行方不明となった三種の神器のうち宝剣の捜索に躍起になっていたことで、この宝剣捜索をこの海域の事情に精通している佐伯景弘に命じたからです。
またもうひとつの背景には、天下の信仰として定着していた厳島神社の実質的運営者である佐伯氏に対する安堵ということもあったものと思われます。

 これは鎌倉時代以降も、厳島神社の実質的な運営者(祭祀権)として佐伯氏が生き残っていることをみてもわかります。
平家が没落して鎌倉時代になっても、安芸国など西日本は依然として鎌倉幕府の勢力は浸透しておらず、実質的にはそれまで平家、朝廷に与してきた豪族たちの在地支配は変わるものではなかったようです。鎌倉幕府は依然として関東を中心とした東日本の政権でしかなかったようです。
 この勢力図を一気に変える出来事が1221年の承久の乱だったわけで、それまで西日本に浸透していた朝廷の影響を一掃し、御家人を西国諸国に地頭として送り込んでいきます。安芸国にもこの時多くの新補地頭が送り込まれており、これが後の戦国時代に活躍していく領主たちになります。
 厳島神主職についても、この事件を契機に幕府は御家人の藤原親実を古代以来の『異性の他人をもって神主となすすべからず』という伝統を破って、佐伯氏と首を挿げ替えてしまいます。 しかし神主職になったからといって、藤原親実が安芸国に在住していたわけではなく、彼は幕府の要職にあり、安芸国には惣政所という機関をおいて、遠隔支配させるという形式を取ります。この惣政所職には相変わらず佐伯氏があたることになります

 この形は鎌倉時代を通じて行われ、藤原氏が安芸国に在住し、現地支配の形をとるようになるのは、南北朝の動乱期あたりからと見られています。 藤原氏が厳島神主職として安芸国に下向して本拠としたのは、現在の廿日市市にある合同庁舎の裏手にある桜尾城になります。現在では、桜尾公園として小さな丘のようになっていますが、これは公園として整備するために頂上部がかなり開削されているからです。昔の城跡の面影はほとんどありません。
また現在は通称宮島街道と呼ばれる旧国道2号線沿いの内陸部になっていますが、大正時代の頃撮影された貴重な写真がありますので、ご覧いただけたらわかるように、瀬戸内海に面していた城であることがわかります。

 この写真から推測できるように、現在の桜尾城跡からは推測は難しいものの、当時は瀬戸内海に面していた厳島から安芸国へ至るルートにあった重要な拠点であったことがわかります。 藤原氏もこの城を拠点に、次第に地方国人領主としての道を歩み始めます。
彼らの領地は、当然厳島神社が所有している領地であり、藤原氏は、厳島神社の神主職として、神社や神社構成員とその領地を支配する権限を有するとともに、一方では、国人領主として周辺の領地、荘園を取り込んで領地拡大していく武士団でもあったわけです。

 
 14世紀後半になると、隣国の大内氏が安芸国に進出し始め、周防から安芸国の進入口に位置する桜尾城の藤原氏は、大内氏と密接な関係に入ることになります。
しかし1508年大内義興が前の将軍足利義稙を奉じて上洛するわけですが、当時の神主家藤原興親は大内義興に随行し京都に入りますが、その年の12月に病死します。興親には後継ぎがいなかったため、このあと藤原氏は跡目相続を巡って分裂し衰退していきます。
藤原興親病死後、地元廿日市では同じ藤原一族で、友田興藤と小方加賀守とに分かれて合い争うことになりますが、大内義興が京都から周防に帰還してくると、藤原氏から神主職を取り上げて、大内氏自身の支配下に組み込んでしまいます。これは次の大内義隆の時代まで続きますが、藤原氏としては当然反発します。
1523年友田興藤は、大内氏と敵対していた安芸国銀山城の武田氏の協力を取り付け、大内氏に公然と反旗を翻すことになります。大内氏が派遣していた城番を追放して桜尾城を占拠します。
 しかし結局大内義隆の時代になって、ついに1541年友田興藤は、神領衆などにも見放され大内氏に包囲される中、ひとり桜尾城に火をかけて自害します。ここに承久の乱以来約300年間にわたって神主職を世襲してきた藤原氏は滅亡します。


大内氏による厳島神社運営
 戦国時代も末期になると、厳島神社の社領は、大内氏の手に移ります。それまでは、厳島神社職と社領は藤原氏が世襲してきたわけですが、1508年、大内義興が足利義稙を奉じて上洛した時、これに従軍した厳島神主藤原興親が京都に客死します。そのことから、その後継をめぐって東方(桜尾城)友田興藤と西方(藤掛城)小方加賀守との問に戦闘が起こりますが、大内氏は、この機会を利用して、厳島神社職とその社領を、藤原氏から取り上げ、ついに大内氏がこれを直轄することとします。
 このようにして厳島神社の社領は、大内氏の手に入るわけです。
大内義興は、かつて藤原氏が支配していた現在の廿日市市から広島市西部にかけての一体の諸城に大内氏配下の家臣を城番として配置します。具体的には、己斐城に内藤孫六、石内城に杉甲斐守、桜尾城に初め島田越中守、のち陶安房守家中の大藤加賀守・毛利下野守を配置します。

 大内氏は、厳島を支配するにあたっては、従来どおりの慣習を尊重することを基本としますが、同時に厳島神社を実質的に取り仕切っている社家に対する権限を強化するなどして、封建領主として厳島神社への支配権を誇示することも忘れません。
藤原氏に代わり、神主職に小方加賀守(藤原氏の庶流)の息女を妻としているということで、杉景教と言う人物を新たに配置するわけですが、実際には事務方である神社棚守職であった野坂房顕(棚守房顕)に対する直接的な関係を通じて、神社経営をしていたようです。つまり、この時代から事務方に過ぎなかった棚守職の房顕が、神主職を超えて、実質的には厳島神社の支配者のような位置についていたということです。

 その理由は、戦国時代末期になりますと、当時すでに神社の運営管理の経済的基盤としては、従来の土地経済というよりは、瀬戸内海交通の拠点となっていた厳島の置かれていた流通経済的な側面が大きくなっていたようで、厳島神社への参詣者、瀬戸内海を往来する流通から上がる経済利潤などの方が、きわめて大きく厳島神社を支えていたようです。
一例としては、村上一族で村上武吉の叔父にあたり、現在の広島県笠岡市にあった笠岡城主でもあった村上隆重という武将は、京や堺の商人から厳島において駄別安堵料を徴収していたわけです。厳島は、瀬戸内海と大陸との当時の広大な経済圏の中で、重要な流通拠点であったことを物語っています。

 その流通経済的な側面に実際に関わっていたのが事務職の房顕などで、さらには、厳島神社に囲われている人々、つまり供僧、侍女、さらには、神社の造営、祭事などを運営していくために欠かせない職人集団など多様な人々を直接管理していたわけです。当時厳島に居住していた人々は、二種類に分けられます。つまり厳島神社に囲われている人々いわゆる神人とそうでない人々いわゆる町衆です。
また逆にいえば、大内氏やその後の陶氏、毛利氏などがなぜこの厳島神社に異常な関わりを持ったかの積極的な理由でもあるわけです。単なる信仰心だけで、この厳島神社を庇護していたと考えるのは、単純すぎます。

 大内義隆を継いだ陶晴賢は、先の村上隆重の駄別安堵料徴収を厳禁し、変わりに商人からの礼銭を陶氏が受け取ることとしたり、また厳島神社の人々でない町衆を陶氏の被官として直接取り込んでいます。また神主職に与えられていた社領の検地を強行したりしています。これは、いずれも厳島をできるだけ自己の支配下に置こうという現われで、厳島がおいしい利益であったことを物語っています。
 そのような封建領主の権力にもどうしても包摂できない部分が、棚守職房顕などのような人物たちで、直接厳島神社の運営や祭事の執行に関係を持っていた部分は、聖域として世俗的権力の埒外に置かれ、その後も厳島神社とともに生き残っていくことになります。

 
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