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鑑真上陸の地  坊津



井上靖氏の『天平の甍』でも知られている唐の高僧《鑑真》が何回もの失敗を克服して、ついに日本に上陸した地点です。日本の三津と呼ばれ、中国への寄港地として知られてきた鹿児島県の坊津。鑑真が上陸した地点は、数ある浦泊の中でも、写真のような秋目と呼ばれる小さな浦泊です。盲目になりながらも6回目の渡航で日本に上陸。奈良の都に上り、唐招提寺を建立したことは知られているとおりです。現在、上陸の地点に鑑真記念館が設けられ、鑑真の功績と生涯を学ぶことができます。

 ところで、鑑真の坊津上陸について、世間で流布しているイメージ― つまり鑑真は、遣唐使船の寄港地としてのこの坊津に当然のように着いたかのようなイメージ― が根拠のないものであることを検証した本を今回はここで紹介しておきたいと思います。
 この著書は中村明蔵氏による『鑑真幻影』(南方新社)という本です。中村氏は地元鹿児島の大学の先生で古代隼人など古代史研究の専門家です。
 中村氏の指摘する問題点は、地元坊津の『坊津郷土史』と、他の坊津に関する書物の中で流布されてきた《坊津》と《遣唐使船の寄港地》としてのイメージにあります。それを裏付ける史料がないことを指摘。古代から《入唐路》として遣唐使船の寄港地または遣唐使船との何らかの必然的なつながりがあったようなイメージを与えている点ですが、そのような必然的な関連性に疑問を呈しています。中世には《日本三津》としてくまなく知られていた坊津ですが、中村氏の指摘は、坊津の地名は古代には散見できないこと、坊津にあった一乗院との関連の中で古代から坊津が歴史に登場し、《遣唐使船》に結び付けられて語られてきたにもかかわらず、その文献的、考古学根拠が見つからないということ、また鑑真がこの坊津からさらに佐賀の加瀬津というところに上陸してから大宰府まで言ったとされている、いわゆる半ば世間で常識として紹介されているような大宰府までの行程も否定。鑑真の坊津到着から大宰府到着まで6日しかないことを指摘し、それは無理と指摘されています。現在の佐賀県の加瀬に上陸してから大宰府までの陸上での行程では6日では無理があるという論です。
 1日に人間が歩行移動できる距離は平均30キロ前後。薩摩の国府のあった川内から大宰府あたりまで約250キロ余り。単純計算しても無理だし、過去の旅行者たちの行程もだいたい11日くらいと紹介されている。さらに坊津から川内までもかなりの距離があります。ですから間違いなく坊津からも海路をとったと指摘。
 その場合でも佐賀県の加瀬に上陸してから大宰府に行く行程には、遠回りになることも指摘し、さらになんらの資料的な根拠がないことを指摘しています。中村氏は、疲労困ぱい、失明の鑑真を一刻も早く京都へ案内する必要性から、大宰府までの最短距離である、有明海からさらに筑後川水系に入る行程をとったのではないかと推測されています。
 従って 当然 この坊津には上陸して《滞在》するとかの時間的な余裕はなく、難破同然でこの秋目浦に漂着した遣唐使船から、ここで小型船に分乗して八代海さらに有明海の海人族などの水先案内を得て、大宰府へと向かったであろうと推測されています。
 遣唐使船、鑑真や坊津の歴史について関心のある方はぜひ一読してみてはいかがでしょうか

写真は、広島県倉橋島で復元された遣唐使船です。
 実際、遣唐使船は倉橋で造られていました。瀬戸内海で活躍していた海人の技術に早くから注目していたことがわかります。その伝統が小早川水軍や村上水軍へと受け継がれていきます。そして近くの呉ではあの『戦艦大和』が建造されるに至るわけです。技術の継承というものが、何千年もあることに感嘆します。
 因みに、中に乗り組んで見ましたが、船内の広さは、意外と広いですが、50人から100人の乗員となると、窮屈だったろうと思います。


 
 
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