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西郷隆盛と島津斉彬邂逅の現場 鹿児島市


写真は鹿児島市水上坂の現場です。参勤交代に使われたルートにあたります。鶴丸城を出立した一行は、城下を通過してこの水上坂を通過すると、鹿児島城下との別れになります。城主はこの坂の峠の先にあつた休憩所で着替えするのが慣例だったとされています。ここで、斉彬は西郷隆盛という人間を始めて見たとされています。

時は1854年1月。老中阿部正弘は急遽国許に帰国していた島津斉彬に江戸に時期を早めて上るよう要請してきます。国難に対処するため島津斉彬の支援が必要だったからです。
 前年の1853年ペリーは幕府からの回答を翌年に待たされたので、アメリカに帰ることなく、中国に寄港し、そして1853年暮れには琉球に来ます。島津斉彬が江戸に出発するちょうどその頃、ペリーも琉球を出航し、江戸に向かいます。そのペリー艦隊が浦賀沖に姿を現したのは、1854年の1月中旬、琉球から江戸までわずか4日ほどで到達。斉彬はペリーが琉球を出発したことを知った上で鹿児島を出立。通常の参勤交代50日ほどの日数を短縮してもひと月半もかかり、江戸に入府。


島津斉彬は、この江戸出立に先立ち、江戸に連れて行く供の者たちの名簿の中に西郷隆盛を加えたとされています。
 そもそも西郷が斉彬に知られるようになったきっかけは、斉彬が広く藩の状況についてる意見書を募ったところ、西郷隆盛も意見書を提出。その後も西郷は度々意見書を提出。斉彬の目に留まるようになります。意見書のなかに、斉彬は西郷のただならぬ才能を見抜き、西郷を育てる気になったと思われます。
 西郷の思想的教養のバックポーンは、若いころの近思禄を中心とした輪読会にあり、少年時代の決闘が原因で腕に傷を負いそのため剣の道で身を立てていくことをあきらめた西郷は、専ら文の道への精進します。その彼が斉彬に目をかけられるだけの何がしかの教養を持ちあせていたのは当然だったろうと思われます。
 この水上坂は、西郷にとって一薩摩藩士から日本のサムライへと駆け上っていくことになる《峠》になったのです。

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