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薩摩を開国倒幕へと向かせた薩英戦争


  薩英戦争のきっかけになった《生麦事件》については、《生麦事件の真相》のページで書いておきましたので、そちらのページも読んでいただれば幸いです。
 今回は、薩摩にとっての《薩英戦争》の意義というものについて考えてみたいと思います。

 生麦事件の賠償をイギリスは当然求めます。要点は 1.幕府に対しては10万ポンドの賠償金 2. 薩摩に対しては 加害者の引渡しと公開の処刑、 そして犠牲者リチャードソンの遺族に対する慰謝料2万5千ポンドです。
 幕府側は賠償金に対して承諾し、支払いますが、薩摩はひとつとして要求には応じようとはしませんでした。5月9日に幕府からの賠償金を受け取ったイギリス代理公使ニールは、クーパー提督率いるシナ艦隊七隻を引き連れて薩摩へと向かいます。6月27日に錦江湾平河沖合いに停泊。翌日艦隊はさらに錦江湾奥に進みます。ここで薩摩藩とイギリス側との交渉が始まりますが、薩摩側は相変わらず加害者を差し出す意思は見せませんでした。当時の状況では多分台風が近づいていたらしく、(旧暦の6月下旬ですから、陽暦の8月上旬にあたりその可能性は大)錦江湾の波が高くなってきたようで、悠長に交渉を長引かせているわけにはいかず、薩摩藩が購入し、現在の姶良町重富沖に隠していた蒸気船三隻を慰謝料代わりに拿捕します。この知らせを受けた時点で薩摩側は天保山の砲台から第一弾をイギリス艦隊めがけて発射します。この瞬間薩英戦争が始まります。




 薩摩藩の砲丸は射程距離約1キロそこそこ。それに対して98門のアームストロング砲から爆発する弾丸は市街地まで飛ぶほどです。最大のアームストロング砲の砲弾は110ポンドで最大射程距離は4500メートル。錦江湾の幅が約4000メートル。薩摩側の砲台から打ち出される弾丸は容易に艦船に届きさえしないものの、110ポンドのアームストロング砲の弾丸は薩摩側の砲台を飛び越えて市街地まで届いたということです。昼頃から始まった打ち合いは、その日の夕暮れまで続き、明けて翌日も小競り合いが続きながら、その翌日英国艦隊は錦江湾から去ります。薩摩側の戦死者5名、対してイギリス側の戦死者は13名。戦死者負傷者の数で言えば、イギリス側のほうが損害は大きかったと言えますが、薩摩の市街地の約5百戸が消失し、それ以上にアームストロング砲なるイギリス側の技術の高さに唖然とし茫然自失になります。艦隊が周到な準備の上再来すれば、敗戦は誰の眼にも明らかでした。薩英戦争はその事実を薩摩のサムライたちにはっきりと自覚させたのでした。
 この薩英戦争が薩摩に与えた影響は、1.攘夷の不可能を身をもって体験したこと。それによって、イギリス側に軍艦や大砲購入の斡旋を依頼するなどイギリスへ急接近し、さらには1865年未だ鎖国政策の中、五代友厚ら15名からなる留学生をイギリスへ送り出し、一足先に西欧化を始めていきます。富国強兵策に取り掛かることになります。この延長線上に倒幕がスケジュールにあがってくるのです。
2. この戦いで精忠組下級武士たちの活躍が目覚しく、ここに半ば官僚的になっていた上級武士たちに変わり、精忠組下級武士の発言力が上がり、再び西郷隆盛を担ぎ出すことが可能になったこと、大久保、西郷、小松帯刀の薩摩トリオがこの後藩政を舵取りしていくことになります。

写真は祇園州の砲台跡。


写真は天保山砲台跡。ここからイギリス艦隊への第一砲が発射された。


写真は祇園州の砲台跡の背後に控える多賀山城跡からの錦江湾と桜島の眺め。
 
関連情報
薩摩紀行―生麦事件の真相




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