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高縄寺  愛媛県北条市


  高縄寺は、伊予の海を見渡す高縄山の山頂にあります。標高986メートルの山頂からは遠く瀬戸内海を一望できます。
 高縄寺は、河野氏の祈願所、菩提寺として建立された寺です。また河野氏が湯築城に移るまでは、高縄城があったところでもあります。
 河野氏のルーツは、伊予の越智氏とされています。越智氏のルーツはニギハヤヒノミコトから出て、後に越智国造となった小致命の子孫とされています。
 藤原純友の乱の時には、純友討伐軍に加わり、その功あって越智郡の押領使となり、武士団として成長するきっかけを作ります。しかしその一方では、中国江南地方からの渡来系という伝説も残されていて、越智氏の出自については渡来系という線は捨て切れません。
 越智氏が伊予地方における初期の土着勢力として発展していくのに対して、河野氏は北条高縄地方にその発祥のルーツがあります。越智氏がそのまま河野氏に発展したのか否か、これも明確ではないようです。しかし河野氏自身は越智氏を先祖とすることを対外的に打ち出していたことははっきりしています。
 河野氏が急成長することになるのは、頼朝による平家討伐に源氏軍として参加してからです。義経の壇ノ浦合戦での勝敗を決定する要因になるのは、船による戦いですが、このとき義経の軍として壇ノ浦で活躍したのが、河野氏配下の河野水軍です。来島海峡など瀬戸内海有数の瀬戸での船の扱いに慣れていて、壇ノ浦での潮の流れをうまく活用することができのは、河野水軍の功績と言わなければならないでしょう。
 北条地方を根拠にして、河野氏は伊予の豪族として発展していきますが、承久の乱では宮方についたため、一族は没落離散する悲運に見舞われます。この一族悲運に出会い、一族の菩提を弔うために全国を行脚した人物こそ、鎌倉時代の新しい宗派を作り出した一遍上人そのひとです。一遍こそ、没落した河野一族の一人です。
 しかし鎌倉幕府から足利幕府へとかけて、再び動乱の中に巻き込まれ、一族敵味方に分かれて戦いますが、河野通盛は終始宮方と戦っています。河野氏が本拠地高縄城から平地の湯築城に移るのは、このころと思われます。
 湯築城に移った河野氏を待ち受けたいてのは、戦国時代末期に四国統一を果たした土佐の長曽我部元親の攻撃、さらに秀吉による四国征伐軍でした。
 長く伊予地方の豪族としてこの地域を支配してきた河野氏にも終焉の時が迫っていました。
 1585年豊臣秀吉による四国上陸作戦が敢行されると、伊予方面から小早川隆景の軍が上陸。ときの河野氏の当主は河野通直、22歳。毛利元就の厳島合戦に支援したことから河野氏と毛利氏とは深い関係になり、小早川隆景とは親戚関係に当たっていました。隆景は通直に書面で降伏を勧め、通直は家臣との合議の上即刻開城します。
 小早川隆景は伊予平定の功として伊予国35万国を、安国寺恵瓊は和気郡の2万3千石を秀吉より宛がわれます。河野通直は、隆景がそのまま湯築城に留まったため、湯築城に留まりますが、隆景が筑前に配置換えになると、河野氏の行く末を心配した毛利氏は、河野通直を小早川氏と縁が深い竹原に移します。かくして河野通直は譜代の家臣50余名を引き連れて竹原に移り住みます。
 竹原市にある長生寺は、河野通直が竹原に移り住んで2年後に死亡したため、その菩提を弔うために小早川隆景が建てたものです。


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