Samurai World>サムライたちの墓>
島津忠長  鹿児島県さつま町


写真は、鹿児島県さつま町(旧宮之城町)の宗光寺跡にある島津忠長の墓です。
島津忠長は、島津尚久の嫡男として天文20年7月17日枕崎の鹿籠に誕生。
 父尚久が加世田にて死亡した後、大隅串良の地頭に任命されます。忠長は義久の副将格として義久の側近として仕えます。
 島津氏一門の中では例外的に、家老として任命されます。
  日向の伊東氏との戦い、島原での竜造寺隆信との戦い、筑後の高橋招運との戦いに参戦。その後秀吉に対する人質として京都に赴任。
 義久の弟゛ある歳久が秀吉の命で、鹿児島の竜ヶ水で討たれた後、その首が京都の涙橋に晒されていたのを、歳久の首を奪って京都浄福寺に埋葬します。
 そのご秀吉の朝鮮出兵にには、義弘の息子の忠恒(後の家久)の補佐役として出陣。『オニ島津』として勇名をとどろかすことになった『四川の戦い』では、義弘に忠長こそ、『四川の戦い』の功労者と称えられます。
 関が原の戦いの後、新納旅庵とともに徳川家康との戦後処理の交渉を引き受け、島津氏の領土保全と島津義久、義弘の命の保障を取り付けることに成功。
 晩年は宮之城の地頭に任命され、宮之城島津家の二代目(初代は父尚久)として、宮之城に本拠を構え幕末まで続きます。

関連情報
サムライたちの墓―島津尚久の墓
サムライたちの墓―宮之城島津家の墓
薩摩紀行―島津氏略系図

inserted by FC2 system