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島津義久の墓  鹿児島県霧島市


写真は霧島市上井にある島津義久の墓です。もともとこの地に徳持庵という寺があり、その寺に義久の分骨が納められていたものです。
廃仏毀釈により、今では寺跡の痕跡はなく、明治になりあらためて義久の墓が建立されたということです。
島津義久は島津氏第16代の当主で、島津氏が九州全土に支配を広げようとしていた最盛期の当主です。
弟の義弘の協力の下に、九州完全制覇を目前にして豊臣秀吉によって、挫折させられる羽目になります。
秀吉からは疎遠にされ、その代わりに弟の義弘が島津氏を代表するような形になり、秀吉政権下では義弘の活躍の陰に隠れがちでしたが、
それでも島津氏の当主権は依然として義久が握っていました。
 関ヶ原後は、義弘が謹慎の形で帖佐から加治木へと移り住んだのに対して、兄義久は現在の隼人の富熊城に本拠を据えて、鹿児島には
娘婿である義弘の息子忠恒をおきます。後の島津家久です。義久には男子が誕生しなかったので、娘の亀寿を義弘の息子たちに嫁がせることで
、家督を譲ろうと考えていたようです。そうすることで、次の次の当主には義久の血が受け継がれることになるからです。
 富熊城からやがて国分の舞鶴城に移り住み、ここで最晩年を過ごします。1611年に79歳の高齢で舞鶴城で亡くなります。
遺骸は島津氏代々の墓所である鹿児島の福昌寺に埋葬されますが、義久の分骨は国分の金剛寺と、ここ徳持庵にも納められます。
墓の背後にそびえる山は、上井城跡です。上井城は、義久の家老を務めた上井覚兼の父の代まで城であったところです。



関連情報
サムライたちの墓―九州編―島津義久の墓(福昌寺跡)
古城紀行−上井城
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