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第34回  九州の桶狭間は坊主の戦いだった!


島津氏が日向の大名伊東氏を破った《木崎原合戦》は、寡兵で大軍を破った戦いという点で、昔から九州の桶狭間と呼ばれてきました。
 1572年、島津貴久が死去したことで大隈の大豪族肝属氏が根占氏と呼応して島津氏をけん制して来ます。島津氏の動揺を狙って、日向の伊東氏も動き出します。それが世に言う《木崎原合戦》です。

 この合戦、現在の宮崎県えびの市の平原。霧島連峰の直下で行われます。先に動き出しのは、伊東氏のように言われてきました。1572年5月伊東義祐は伊東祐安、伊東新次郎、伊東又次郎及び老臣落合源左衛門等を将として約3千の兵を与えて、小林を伺い、さらに当時真幸院と呼ばれていた、現在のえびの市一帯に進撃します。ここは古くから島津氏と伊東氏、さらには球磨地方の相良氏との境界線に当たり、争奪戦の要地に当たっていました。
 当時は島津氏がこの地を支配し、貴久は次男島津義弘を配置していました。伊東軍はこの島津義弘の居城飯野城を攻撃してきます。義弘側の手持ちの兵は約300ほどといわれます。約十倍の兵力を圧倒して壊滅させたことで、《九州の桶狭間》と言われてきた所以です。島津氏をあつかった様々な本には、《九州の桶狭間》的観点から、義弘側の果敢な戦勝話が書かれています。
 しかしこの合戦には、常識的に考えてもおかしな点が多々あります。
まず、夜半、小林で三千の兵を二手に分けて、そのうち一手はえびのの飯野城とは数キロはなれた義弘の夫人広瀬氏が守る加久藤城に向かいますが、薄暗かったため近くの山伏樺山常陸坊浄慶の邸宅の石垣を本丸に通じる細道と間違って、山伏樺山常陸坊浄慶の邸宅を攻撃します。浄慶は早速鉄砲で応戦したといいます。素人か考えてもおかしな話です。城の城壁か邸宅の石垣かもわからない馬鹿な大将がいるでしょうか。

 地元郷土史では、そのときの大将たちが若干20歳そこそこだったことが、指揮系統の不備を誘い、敗因であるかのように書かれていますが、当時の23歳前後の青年と現代の23歳前後の青年とを同一視するのは危険です。大将たるものいかにあらねばならないか、十分訓練されていたはずです。戦場という場数を経験していた連中です。学習参考書や教科書だけを勉強してきたような現代の受験エリートとは本質的に違います。
 伊東軍は加久藤城攻撃に手間取り、被害が出始めたので、いったん川内川の流れる平地に退却します。ここで応援に駆けつけてくれるはずの相良軍を待ちますが、一向に来ません。それもそのはず、相良軍約700ほどの兵は周囲の山々に夥しく翻っている旗を島津氏軍の援軍と勘違いして、伊東軍に合力することなく退却します。
 この旗、この地の白鳥神社の住持光厳法印によって地元の人間をかき集めて立てさせていたものでした。
 川内川河畔で休んでいた伊東軍ですが、一向に待っても助っ人の相良軍が来ないので、白鳥山を越えて退却しようということになります。そこで白鳥山の方角へ退却しますが、ここでも白鳥神社の光厳法印が門徒らを集め、鐘鼓を鳴らし、かちどきの声をあげて伊東軍の行軍をさえぎります。伊東軍は再び川内川河畔の木崎原に戻ります。そこに義弘率いる島津軍が突入するわけです。義弘の手持ちの兵は約300。それを小部隊に分けて木崎原を伏兵にして囲みます。義弘自身は約50ほどの精兵を率いて木崎原の伊東軍に突入していきます。伊東軍は隊列が乱れ、大将クラスが討ち取られます。四方八方から取り掛かってくる島津軍に翻弄され、小林の三ツ山城目指して敗走していきます。大口の新納忠元の援軍が駆けつけたときには合戦はほぼ終了していたと言います。

 さて、この合戦の推移の概略は以上のようですが、どうもこの合戦、はじめから白鳥神社や地元の農民までも一体となっていたような戦いぶりです。
 この戦いで恩賞に預かったものに、盲僧菊一という人が諸県十四力郷の座頭に、さらに吉松小野寺住僧愛甲相模坊という人が加増を受けています。
 盲僧については、伊作島津氏の本拠亀丸城近くに常楽院という寺院があり、そこの由来に拠れば、島津忠久について薩摩に下ってきたとありますが、島津氏は早い時期から盲僧をスパイとして利用していたようです。
 また現在の湧水町吉松にいた小野寺住僧愛甲相模坊という僧は、相模の愛甲出身で代々島津氏とは非常に親密な関係をもつていた家系で、もともとは修験者だつたものが、島津忠久に従って薩摩に下ってきたと言い伝えられています。独特の兵法書を代々伝えてきているようです。愛甲家には、島津氏代々から賜った数々の品が家宝として伝えられ、島津氏との特別な関係が伺えます。
 地図を見ればわかるように、木崎原とは、川内川河畔にあったわけですが、現在は川内川の川筋が変更されていて、当時の木崎原のイメージはないのですが、周囲は山々に囲まれ、この木崎原に伊東軍をおびき寄せたのは、そこで迎撃する手はずが最初からあったからのように見えてきます。
 加久藤城の砦と山伏宅の石垣とを混同したり、山伏方は未明にもかかわらず、それ待ってましたとばかり、鉄砲で応戦とは準備がよすぎます。また、そもそも義弘のいる飯野城ではなく、数キロ離れた義弘夫人のいる加久藤城を攻撃することも疑問です。飯野城から加久藤城へは間道が残されていることからもわかるように、この間には連絡網はしっかり出来ていたと考えるべきです。
 また敗走する伊東軍は小林方面ではなく、なぜまったく方向が違う霧島山麓の白鳥神社方向を選んだのでしょうか。これなど白鳥神社一味や義弘軍が伊東軍の退路を完全に断つように仕向けていたと考えられます。

 この戦い、完全に義弘とそれを裏で支えていた白鳥神社一味、そして島津氏に古くから仕えていた山伏、修験者たちが練っていたと考えるとすっきりしてきます。霧島山系一帯は、古代より山岳信仰のメッカで、修験者、山伏たちが数多くいたと考えられています。かれらは、単に宗教的な修行者だけではなく、同時に独自の兵法、気象、自然現象、地形、地理などにも通じ、様々な面で島津氏を支えていたと思います。島津氏はこの修験者、山伏の人々と連携しながら、薩摩半島統一事業を成し遂げたと私は考えています。
 
 写真下は、霧島山麓の白鳥神社方面から見たえびの市。それぞれの位置関係がわかります。





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