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第24回  謝金踏み倒しが 統幕を可能とした!!

今回は、幕末の討幕運動のあたりについて、触れたいと思います。
 皆さんは、討幕運動の際、長州、薩摩、佐賀などの西日本の雄藩がなぜ中心的な蕃として浮上してきたのか、疑問に思ったことはないでしょうか。
 日本史の教科書を開いて見ればお分かりのように、討幕運動というのは、西日本の雄藩を中心にして実行されていきます。それでは、なぜ西日本の長州藩とか薩摩藩とか、急に幕末に登場してくるのでしょうか。
 倒幕運動の歴史的背景には、いろいろ指摘されていますが、今回は、その要因の中でも肝心要の点を取り上げます。それはとりもなおさず、戦いには金が要るという大原則です。
 金がなければ、軍を動かすことができない、このことは武将とは切っても切れない宿命にあります。

 そこで今回は、薩摩藩の例を紹介します。
 皆さんご存知のように、薩摩藩というのは、公称77万石の大大名です。ですから、外様大名の中では、格が上位にランクされ、それに応じて江戸城での控え室も徳川御三家と同格の大廊下またはその下のランクの大広間の詰所が充当されていたわけです。また世襲の官位としては、権中将で保科氏(徳川秀忠の庶子系統)、伊達氏、井伊氏、高松松平氏(水戸徳川系統)などと同格に待遇されていたわけです。
 このようなランク付けを見せられると、ずいぶん島津氏は羽振りがよかったのだろうと推測するところです。ところが、実際は、薩摩の公称77万石とは、籾殻での石高ですので、77万石分の米の収穫があるわけではないのです。しかも、薩摩というところ、現在は大部分が鹿児島県になりますが、その土壌はシラス台地で、土地は痩せています。
 また、薩摩藩というのは、日本の中でも非常に特殊な風土で、700年間も長きに渡って島津氏の支配地を通すわけです。これは日本の中でここだけです。他のところは、入れ替わり立ち代り領主が入れ替わります。ところが島津氏だけは、鎌倉時代から幕末までずっと薩摩の地を支配します。したがって、薩摩の人々と島津氏との関係というのは、他国での関係とはちょっと違うところがあります。

 薩摩藩には、江戸時代を通じても天守閣のそびえる城郭がありませんでした。なぜ天守閣など必要ないかと言えば、薩摩の風土が育てたもので、地方に出城として多くの郷士たちが所在していて、それが鶴丸城を包囲するかのような形で、国境を取り囲んでいるわけです。つまり、郷士という身分のサムライたちが、地方にあって、農兵分離の形で防衛線を形作っているわけです。平生は農業を営んでいるわけですが、実態はサムライなのです。豊臣政権の兵農分離政策など遠い薩摩の地には及ばなかったのです。
 このことから推測できるように、薩摩藩には、農民の姿をしたサムライたちが、他国に比べて膨大にいるわけです。一応藩お抱えのサムライ身分ですから、他国に比べて、その維持費もかさみます。
 土地が痩せている上に、サムライたちは、他国に比べて非常に多い、こういう次第で公称77万石の大大名とは言っても、家計は火の車だったろうと思います。

 このような財政事情であるのに、島津氏25代の当主島津重豪はとんでもないことをわらかします。
 彼は、1745年に誕生します。父が早世したためにわずか10歳にして藩主になります。この島津重豪、当時としてはあまりに進取の気風を持ちすぎていて、当時外様大名など近づけない長崎に参勤交代の折立ち寄り、シーボルトなどと交友を持ったり、江戸屋敷には洋風の別荘を建てたりするほど、オランダかぶれだったようです。オランダ語や中国語など自由にしたようです。家来たちとの会話を中国語でやったりしていたようです。こういう重豪ですから、薩摩藩にもそのような気風をどんどん取り入れていったわけです。
 古臭いしきたりを廃止したり、江戸や上方の芝居を薩摩に呼んで見せたり、町民にも奢侈な消費生活を許可したり、さまざまな学校などを建て、大規模な編纂事業を行うなどして、それまでの薩摩の人間たちにはカルチャーショックをもたらします。
 しかし、もたらしたのは、ただカルチャーショックだけではなかったわけで、薩摩藩には付けとしてのマネーショックももたらします。何をするにも金が要るのが世の常ですから、重豪の政策は、今風に言えば薩摩バブルだったのかもしれません。
 このような重豪も1787年には、藩主の座を息子の斉宣に譲りますが、実権は相変わらず重豪がもっていたようで、斉宣が逼迫した財政建て直しに有能な家臣を取り立て、緊縮政策を推進しようとしても、父重豪にとっては彼が行ってきた政策の否定と捉え、担当家臣らを切腹させます。ですから、斉宣の時代になってもいっこうに薩摩藩の財政はよくならない。

 1809年、斉宣のあとを受けて、斉興が27代の当主となりますが、まだ重豪は生きています。後見役なんでしょうが、重豪の意に逆らえない。薩摩藩の財政はますます逼迫していきます。
 江戸時代も半ばを過ぎますと、実態は現在の私たちの時代と変わらない貨幣経済、市場経済ですから、米などいくら貰っても役に立たない、現金至上社会です。金がなかったら、大名と言えども借金するしかない。借入先はほとんどが江戸や大阪の豪商です。
1813年当時、薩摩藩の抱えていた借金は、約500万両と言われます。当時の薩摩藩の収入、今で言う税収が、年間約12万両から18万両です。借金の利息が毎年60万両だったようです。
 この数字を見れば、当時の薩摩藩の財政は返す当てがない、絶望的な状況にあったようです。しかも当時の薩摩藩の公租(所得税のようなもの)が約8割というとんでもない効率で、これ以上農民から税金も搾り取ることすらできない絶望的な状況にあったと言えます。
江戸屋敷に蓄える米もほとんどなく、参勤交代で江戸から薩摩に帰ることすらできないこともあったと言います。それくらい悲惨で絶望的な財政状況だったわけです。
 そんな薩摩藩がどうして、幕末に最新鋭の西洋式武器で武装された軍を機敏に動かすことができたのでしょうか。

 そのからくりは、実は借金の踏み倒しにあったのです。
 バサラ大名島津重豪もさすがに、絶望的な財政を立て直すことに気づいたのか、一人の茶坊主に白羽の矢を立てます。その人物とは、薩摩藩の荒治療師こと調所広郷です。
 調所は、下級武士の家に生まれ、貧乏の故、口減らしのため、調所家の養子になります。しかし調所家も貧乏だったため、茶坊主になります。茶坊主になれば年4石貰えるからです。薩摩の志士たちの中には、生活のために茶坊主になっていたものが結構います。それはそうでしょう、藩そのものが貧乏のどん底だったわけですから。
 しかし調所はもともと才能があったのか、才能が認められて町奉行、側用人と出世していきます。こうして、重豪に藩財政改革を命じられるわけです。このとき調所51歳です。
 調所がまずしたことは、大阪の商人のところに借金に行くことでした。改革しようにも、まず資金がいるということでしょうか。ところが収入が20万両にも満たず、500万両もの借金を抱え、利子を60万両払わなければならない藩に今更金を貸してくれる商人などいるわけがありません。



 そこで調所はどうしたか。大阪の商人出雲屋孫兵衛と組んで、借金踏み倒しの計画に出たのです。
 どちらが知恵を出したかわかりませんが、彼らは、今までの借金の証文を書き換え、新しい証書をやるという口実を設けて、古い借金証文を焼き捨て、借金は250年分割払いで返済、しかも利子なし元本のみという、史上最大の借金返済計画を実行します。250年間分割払いというのは、実質踏み倒しということです。250年後のことなど、想像すらできないわけですから。
 大阪の豪商たちもこれではたまったものではありませんから、一応お上には告訴したようです。しかし、薩摩藩にはなんのお咎めもなく、わずかに出雲屋孫兵衛だけが堺へ追放されただけでした。しかも数年後には出雲屋孫兵衛も大阪へ帰還し、再び調所と協力して薩摩藩の財政建て直し計画に荷担していきます。

 この背景には、島津重豪の娘茂姫が十一代将軍徳川家斉の御台所であり、重豪は将軍の岳父という立場であったのが大きいようです。もっとも重豪にしろ、使えるものは最大限利用してのごり押しだったと思いますが。他藩だったらこのような沙汰では済まなかっただろうと思います。
 ところで、借金踏み倒しを実行した調所が、次にやらなければならないことは、藩主から命じられた蓄財です。500万両の借金をゼロにするだけではなく、蓄えなければならないわけです。藩主から突きつけられた目標は、10年間で50万両を蓄えろというものです。
 調所は、これから金になるものは、すべて金にしていく政策を強力に推進します。中でも有名なのが、奄美列島の砂糖きびの専売制、琉球との密貿易推進です。
 奄美群島の島々は、古くからさとうきびによる砂糖の生産を行っていましたが、これをすべて藩の専売制にし、強制的にさとうきびを植えさせ、米など他の作物の栽培は禁止し、島民は現金で、他の必要品を購入するよう強制します。島民に売る品々は藩が大阪あたりから購入してきたものを、利潤をつけて島民に買わせ、島民の作るさとうきびは、藩が一括して買い上げ大阪で売る、という流通システムを確立します。島民の生活は地獄のようなものであったと言います。
 薩摩と琉球との関係は古く、幕府も薩摩と琉球との密貿易は十分疑っていたようで、このシリーズの第一回でも触れましたように、浜田藩の密貿易が発覚したきっかけも、もともとはと言えば、間宮林蔵が幕府の命をうけて、薩摩の密貿易の証拠を探るために、日本海を下っていたことからでした。
 薩摩藩にとって、琉球との関係は、徳川幕府との関係より古いわけで、しかも薩摩藩という独特の風土からして、徳川幕府など意に介さなかったのでしょう。琉球との密貿易はいっこうに手切れはなかったようです。
 調所は、この琉球貿易にも目をつけ、指宿、阿久根の豪商を使って貿易を推進していきます。この密貿易によってもたらされた利潤は莫大なものだったようです。
 このような調所の財政改革が実って、1840年ごろには、土木工事に200万両もの財政を使いながらも、50万両も蓄財、大阪や江戸屋敷にも多くの米を備蓄できるほどになっていました。
 幕末の名君島津斉彬は、こうした薩摩藩の遺産の上に、藩主として誕生していくわけです。斉彬は、江戸屋敷で曽祖父重豪のもとで育てられます。西郷隆盛や大久保利通が活躍していくのは、この島津斉彬の時代からです。幕末の薩摩藩の倒幕へのエネルギーは、調所広郷なしにはありえなかったわけです。
 絶望的な財政を改革した調所広郷は、1848年江戸屋敷で死亡します。理由は、琉球との密貿易の嫌疑を幕府から掛けられ、藩主斉興に罹災が及ぶのを防ぐためであったと言われています。状況からして、切腹だったのでしょう。薩摩藩では、調所一家を逆臣扱にしていきます。調所の評価が再認識されだすのは最近のことです。


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