写真は鹿児島市に残されている調所広郷の屋敷跡です。ほとんど跡形もなく、現在は写真のように跡地にマンションが建てられています。
鹿児島では、調所は島津斉彬派と対立し、実質的には粛清された人物だったため長い間、陰に追いやられてきた感がありました。幕末の長州に村田清風なくして倒幕はありえなかったように、薩摩にとっても調所広郷なくしては、倒幕はありえなかったでしょう。いつの時代にも、歴史の果実を食べた人々は祝福されても、肥やしを撒いた人物は疎まれがちです。調所広郷とは人々の記憶の中でそういう日陰の存在でした。調所の生い立ちと薩摩藩借金地獄からの脱出の顛末については下記の関連情報《歴史再発見―借金踏み倒しが倒幕を可能にした》をご覧下さい。
彼の財政改革は結果としては、成功を収めたと言えるのでしょうが、恩恵を受けた人々がいる一方では、また塗炭の苦しみに投げ込まれてた人々もいたことも確かです。
写真下は、調所を慕う人々によって建立された招墓と調所が殖産興業に努めた陶業地域美山地区の町並みです。調所は金になるありとあらゆる産業を推進していきますが、陶業もそのひとつでした。
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